屋外で線を引くこと
空き缶を育てながらこう考えた。
どこからが空き缶で、どこからが周りの環境なのか。
外に置いた時間経過によりその錆び方にも日々差が出ます。
常にその輪郭は変形し続ける。境界と思っていたものは固定された不変のものでは全くない。いつか孔が空き、空き缶は空き缶でなくなるでしょう。
世界に織り込まれていくようなそれらの流れのようなものにこそ、生命が宿っているように感じます。大地の縮小版のようです。
数年来集中的に多層ガラス絵作品を制作してきて、「作品」に関する創意工夫を重ねてきましたが、同時に「制作」そのものについても再考したいという疑問や違和感が溜まっていました。(違和感の内容については別記事で。)
屋外の環境の中で五感を伴った線を引き直すことを、いつしか百貨店の展示の合間に重ねていました。使い古した紙を自分で染め、それらを万年筆と一緒に鞄に入れて出かけます。
それは刻々と変化する光を感じる経験でもありました。
そのドローイングが50点を超えた頃、地元浦和の柳沢画廊のオーナーから声を掛けていただき、このドローイングを軸に個展を、という事に。
実はドローイングの初期から敏感に反応していただき、興味を示していただいていましたが、あまりにも手探りだった為、2年近く待ってもらっていました。多層ガラス絵と銅版画と展覧会の合間に進めるしかなく歩みは蝸牛。
まだそのお話の段階でもテーマははっきりと見えていませんでしたが、直感だけで先に絵が出て来るのはいつもの事。「そうか」と思うまで10年以上かかることもしばしば。これは性分なので早回しが出来ない。
そして先月完成予想図を描き制作した経験をきっかけに、翻って制作はどこから始まりどこで終わるのか。完成するとはどういう事なのか、という制作そのものに、より丁寧に向き合ってみたくなりました。
きっとそういう個展になると予感しました。
15歳の頃、池と空と木々を油彩で描いた時、動いている雲や水面、木々を、動いている様に描きたいと感じ、悪戦苦闘した事をはっきり思い出しました。その後、それは保留したまま、内的現実の「心理的な写し鏡」のような作品制作に没頭(詳しくはこちら)しましたが、たびたび保留した領域に引き戻されるような感覚がありました。
今考えてみると、自分がやりたかったことは、写真の様に「一瞬を切り取る」のではなく、あるいは意味を読み取るシンボルとして「象徴的に」モチーフを配置するのでもなく、「変化する現実の世界そのものとして」表現したいと考え、筆を何度も不器用に動かし、地団駄踏んでいたのではないかなということが分かります。
歳をとってもその辺が全く変わってはいない事に呆れつつ、意識的に異なるアプローチでまだまだやれるかもしれない、という期待も同時にあります。
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