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描かれた絵は、作者の頭の中にあるイメージの再現なのか。

 制作発表を続けている間に考えた疑問と並行し、発表する予定なく樹木のドローイングを行なっていました。
 だいぶ後になってから、「Tree In Progress」と名付ける事になるこの一連の制作のキーワードは、「沿う」ということ。木の成長の流れに沿って、光と影に沿って、紙の質感や万年筆のペン先、インクの落ちる速度に沿って描きます。

TIP6/29’21_b


イメージとは何か
 「作品制作を行う作者の頭の中には制作に先立ちテーマやイメージの完成図がある。その再現が作品。」
 上記のことは絵を見る人も描く人も、多くが当たり前に受け入れていることだと思います。
 「これは何を考えて描いたのですか?」
 作品とは作者の頭の中のイメージを表現したもの、という前提のもとで発せられる問い。
 作品の「本当の正解」は作者だけが知っていて、作品から逆に辿ればそのテーマに行き着くはず。そしてそれが作品の意味。
 本当にそうなのか?
 発表した作品を観察していると、それ自体が周囲にアメーバのように手を伸ばし、自身の端を結べる人を探すように育っていくことを作者はほとんどコントロール出来ないと感じることがしばしば。
 作品制作は様々なことの編集のようなもので、たまたまその時にそれを行なったのがその作者なのではないかと感じるようになりました。

庭で日差しの中、銅板にマジックでドローイング。

 美大に入学した時、とても絵が上手い同級生がいました。しかし講評会の度に、作品のコンセプトは何?と教授に何度も詰問され、なぜこの絵の具でなぜこのモチーフを描くのか、筆致はこれが正しいのか?そもそも描く意味は・・・?となり、彼女は次第に絵を描かなくなってしまいました。
 ここでの問題は、隙がないように「事前に考える」スタンスだったのではないかと思います。
 自らの身体を介し、素材を扱う「中」で考えれば、後から振り返って信じられないほど複雑な事も出来ますが、それをどうやってやったかを頭で解く事など意味がないのです。

エッチングで刷った1枚目のTP.(試し刷り)このTP.
が刷られて残っていくことは版画の面白さでもある。
足取りと痕跡が誰が見ても分かる。

 作者の頭の中のイメージを理想とし、目的地がそれを再現した完成作品であるという出発→到着のような直線的制作。
 そうなると最終的には素材全てが表現上のノイズになります。作者にとって予期せぬことは、絶対に避けたい危険なこと。なぜならそれは自身のイメージの再現にとって無駄な寄り道に思えるからです。出来るだけ労力をかけず、目的地に到着すればするほど良い。
 技術は作者が予期せぬことの排除の為に高められ、制作はより無意味な過程になります。
 そもそも「頭の中のイメージ」に到達することはないのです。なぜならそれははじめから素材を伴った「絵」ではないからです。
 ・・・極端な話を書きましたが、頭の中の完成イメージの追求という姿勢はそれ自体、制作行為を否定する種を孕んでいるように思うのです。

歩く
 目的地がある時、やはり少なからず私たちはその移動手段に合理性を求めます。それは到着することが目的だからです。
 では散歩は。 
 右足と左足を交互に出し、体勢のバランスをとりながら呼吸する・・・などという身体の動きをほとんど意識せずに行なえます。ぼんやりと展開する風景に自分を開いていく感覚。
 そのような歩行は、制作にまつわる示唆を私に与えてくれるように感じました。

 散歩から考える制作と、描き溜めた自分の線は親和性が高いと思いました。ひょっとすると逆にそれを求めていたからこそその線が制作の中に入ってきていたのかもしれません。
 そこで初めてTree In Progressというタイトルを付けました。

ひまわりと夕焼け

続く





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