03/08/2020:『Coppertone』

駆け抜ける二人乗りの自転車が、半月型の高架道路の縁をなぞる。向かう先は短いトンネルで、左側に柔らかく曲がりながら暗闇へと進んでいく。風に追われた僕らはトンネルの中に響く轟音に負けないくらいに、足を伸ばし前方に靴底を見せながらスピードを上げた。

                 ・・・

無理してでも登って来た甲斐があった。信号を過ぎてからの坂道は絶対に乗り切れないと思っていたが、今日だけはどうしてか、ギリギリの所で頂上まできた。

「ここに向かって全世界の風が吹いてきているようだわ。」

丘を沿うように地上から浮いた道路は街に向かって反り出ていて、広めに取られた歩道にはベンチまであった。僕らは汗をかいた制服をどこからともなく、そしてどこからでも吹いてくる風で乾かしていた。

僕らはあと半年もすればこの何もない地方都市を出ていき、それぞれの場所で生活を始めるわけだが、こうして改めて街を見てみるとーいつもとは違う視点からー、少しだけ風が冷たく感じた。

ほんの少しだけ。

                 ・・・

夏が来ても本格的に何かを始めようとは思わなかった。いや、思っていたけれど、ただしてこなかっただけだ。いや、それも違う。しなきゃいけないと分かっていながら、気づかぬフリをしていた、というのが正解だ。

学年が変わった頃、僕は日本に帰ってきた。この町の冬は長くて、だから春とはいえまだ陰気な空気感が漂っていたのを覚えている。一年ぶりに廊下に現れた僕を見てまわりのみんなは興味半分、不気味さ半分で指を指したり口を覆ったりしてヒソヒソとしていた。

「あんた、見られてるわよ。」

彼女だけが一年前と変わらずに声をかけてきた。

「見られてることを自覚している人に、見られてるわよ、って言ってもさ。」

「いいのよ。」

特に誰にもお土産を買ってこなかったから、たまたま財布に入っていた向こうの国の硬貨をあげた。

それから彼女はよく授業中にそれを眺めていた。教室の窓と彼女と硬貨。冬服から夏服へ。僕は通路側の席からそんな風景を見ていた。

「これ、日本円でいくらなのよ。」

「いくらにもならない。明治時代まで戻らないと使えないくらい、価値がない。」

「あなたはどういう意味においての異国に行っていたの?距離?時間?」

僕は夏が来ても答えを探していた。

                 ・・・

遠くに駅が見える。実際にそこを歩いている時には感じないが、こうして離れて眺めてみると巨大な気球船みたいだ。白く輝く屋根と銀色の鉄骨、ガラス張りの壁。幾つもの線路が船体を貫いていて、そしてそれぞれがどこかへと繋がっていた。

僕らの背中側の丘からは轟々と蝉の音が聞こえていて、風になびく木々の摩擦と一緒に空気の膜を振動させていた。次々とやってくる車は、ぶわぶわとその空気の膜を切り開いては、また閉じて、そして過ぎ去る。

「興味ないわ、と思っていたものは実は、興味がなかったわけじゃなくて、ただ自分の一部であったから、つまり意識しなくらいに近いもので、あるいはその中に自分がいたから、それに気付かなかっただけなのね。そして、急にこうして客体化されると、その潜在的な存在感の大きさにたじろいでしまう。これが私の今の気持ち。」

普段、自分の膝の裏や喉仏を気にかけて生活しないように、僕らの住んでいる街だって、実際はただ何も考えずに暮らしているだけだ。それは無視を決め込んでいるのと同じようなことだし、またこじつければ、悪気はなかったという理由で相手を傷付けたり悲しませたりする行為にも似ている。

「近過ぎて気付かない、ということがあるならば、つまり、遠過ぎるほど意識してしまうってこともありえるよね。」

僕は広く続く景色を見ながら呟いた。

「そうね、言えてるわ。そして、そうなると近いことと遠いことは、一瞬で飛び越えられる距離ということでもあるわ。」

風の中、彼女が言った。

                 ・・・

初めてヘッドフォンで音楽を聴いたのは中学生の時だった。ヘッドフォンは父から貰ったものでイヤーカバーが宵中盤のキャンプファイヤーくらいに破けていた。それでも耳に当てて、コンポの再生ボタンを押すと僕はそのまま暗闇へと没入していった。

音楽以外の音が聞こえない。無音の音すら存在せずそこには音楽だけが鳴り響いていた。耳の後ろのリンパ腺のあたりからそっくり引き抜かれて、そのまま宇宙船に引き上げられていくような感覚に、ちょっとした恐怖も覚えた。

それから僕は家で音楽を聴く時はヘッドフォンをするようになった。今までは大音量で夜中まで聴いていたから、母は急に静かになった僕の部屋を何度も覗きにきて、

「あんた、大丈夫?」

と、聴いてきた。

「うん、大丈夫だよ。」

と、僕は目で答えるばかりで、実際それ以外の認知組織はヘッドフォンに吸い込まれていた。

一年前の初デートの時、彼女にこの話をすると、

「どうかしちゃったのかと思われたのね。かわいそう。」

と、全くそんな風に思っていない目で言われた。あとで聞いてみると、思っていなかったらしい。

でも一年経って、久々に会った彼女は首にヘッドフォンをかけていた。

そして、

「何よ。」

とだけ、僕に言った。

                 ・・・

駆け抜ける二人乗りの自転車が、半月型の高架道路の縁をなぞる。向かう先は短いトンネルで、左側に柔らかく曲がりながら暗闇へと進んでいく。風に追われた僕らはトンネルの中に響く轟音に負けないくらいに、足を伸ばし前方に靴底を見せながらスピードをあげた。

オレンジ色の光がチューブ内を照らしていて、外から見ると暗闇なのに、入ってみると想像の何倍も明るい。

街の方から受けていた風の抵抗がなくなったから、僕らはさらに加速していって、はためくシャツの袖が船のスクリューみたいだった。彼女は細い腕を僕の体にまわしながら、何かを叫んでいた。

僕は転ばないように必死にハンドルを握っていた。

でもその怖さと同じくらいに、疾走感が全身の高揚を誘い出していたから、きっと笑っていたと思う。

今、もう戻れないトンネルの入り口の光がどんどん小さくなっていって、代わりに出口の方から明かりが迫ってきている。

外に飛び出る瞬間、きっと白い光が急に降り注ぐから僕らはほんの数秒だけ目を瞑るだろう。

そして、近過ぎる無意識が、遠くからやってくる親和性と混ざり合う。

でも、僕らは目を瞑っているから、ただそこにあるということだけしか分からない。

二人乗りの自転車は、そのまま駆け抜けていく。

彼女の細い腕が、僕の体をまた強く抱きしめた。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

彼女は言ったんだ。”あなたは考えすぎるのよ”って。

Hellogoodbyeで『Coppertone』です。


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