「脳内音読」という文章の訓練法
「上手な文章」とは何か。
仕事柄しばしば考えるのですが、僕の思う「上手な文章」を一言で表現するならば…。
脳内で音読したときにスラスラと読める。
これに尽きるような気がします。
世の中には、さまざまな「文章をうまく書くテクニック」の本・解説がありますが、基本的なテクニックとして紹介されているものはおおむね共通しています。
要するに「脳内で音読したときに、想像を妨げることなくスラスラ読める」ことではないかと思うのです。
まぁ、「脳内」に限定せず声に出して読んでもまったく構わないのですが、日常生活においては声に出すのがはばかられる場面の方が多いでしょう。
そんなときはぜひ「脳内での音読」を意識してほしいなと思います。
たとえば小説を読むとき。
登場人物のセリフは、読者が自由に思い浮かべた声に変換されているはずです。主人公、友人、恋人…それぞれに声が違うはず。
ちなみに僕の場合、村上春樹の作品に登場する主人公はみんな同じ声で脳内再生されます。「キザなセリフが似合いそうな声」ですね。
「脳内で音読」とは、つまりそういうイメージ。
文章を読んでいるときに、想像される「書き手の声」を強めに意識するような感じです。このような読み方を習慣にすることが、文章の良し悪しを判断する訓練になると思います。
例文を見てみましょう
ひとつ例を挙げますので、まずは読んでみてください。
文章の基本ルールの一つに「です・ます」調と「だ・である」調を混在させてはダメ、というのがあります。
決して、意味が伝わらないわけではないですよね。上の文章でも、意味は理解できます。しかし、これがなぜNGなのか。
僕は「脳内で音読するときに混乱する(要はスムーズでない)」からだと思います。
冒頭の「よくキャンプに行きます」という一文は「です・ます調」のため、やわらかな音声で再生されることになります。「ああ、そういう感じね」と脳が判断します。
当然、その脳内音声をキープしたまま次の一文に移るわけですが、ここで読者は混乱に陥ります。
なんと「キャンプの魅力は「すべてが自由」なことだ。」と来ました。
いきなりの「だ・である」調で、脳内は大いに混乱します。
「えっ? これ書いている人はどういう人? どういうキャラ?」
首を傾げながら次の文章に移ると、再び「です・ます」調が戻ってくる。「ああ、やっぱりやわらかい系なのかな」と思わせつつ…。
最後の一文は「至福の時間である」で締めくくられてしまいました。
いったいこの人がどんな人なのか。どういう方向性を目指した文章なのか。読者はあっちこっちに振り回されることになります。
基本的な文章テクニックは、他にもいろいろありますよね。
たとえば「同じ文末表現を繰り返すのはやめよう」というのもあります。
上の文章は、すべて文末が「~ました」になっています。決して日本語として誤りではないのですが…。
同じ文末表現の連続は、「幼稚さ」を感じさせてしまう弊害があります。
脳内音読をすると「なんだか子供っぽく感じるな」という違和感に気づくのではないでしょうか。
こういう場合、適度に「~です、でした」や体言止めなどを使って文末表現を変えると文章がリズミカルになるのですが、体言止めの使い過ぎも良くありません。
なんだか「ぶつ切り感」のひどい、妙な文章になりましたね。内容は単なる日記ですが、体言止めの連続によってヘンテコな詩(ポエム)のようになっています。
これもまた、脳内音読してみると「ぶつ切り感」がより強く感じられるのではないでしょうか。
感性を磨く訓練方法として
文章の世界は、言葉の選択と組み合わせによって、無限の広さがあります。
それはまさしく小宇宙と言っても過言ではありません。
この小宇宙をどのように構築するか。
基本的な「文章のテクニック」を知っていることももちろん大切ですが、最終的には「スラスラと読めるか」という非常に定性的な感覚が大切だと思っています。
文章をうまく書くためには、テクニックの勉強だけでなく、感性を磨くことも不可欠。両者はバイクの両輪のような関係です。
僕もまだまだ勉強中の身ですが、感性を磨く訓練として「脳内音読」は非常に有効だと思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?