見出し画像

世界の確立

いやあ。この一週間、いったい猫目はなにをやっていたのだろう。週末になってようやく溜まりにたまったご依頼記事たちの存在に気がつき、そうして必死になって書きあげて一息ついた矢先に「さて。noteでも読みますか」とるんるん鼻歌を奏でてログインしたところ・・・

あれまあ。
なんてこった。

note執筆、手つかずやんけ!

と、きわめて重大な過失が発覚。只今、いそいそと文字を綴っております。みなさま。お元気でいらっしゃいますか?

この一週間をふり返ると、ありとあらゆる情景が頭に浮かんできます。そのどれもがヴィクトリア朝京都やロンドンの風景です。

そう。つまるところ、猫目は毎日時間を見つけては『シャーロックホームズの凱旋』をひたすらに貪り読んでいたのです。

いやいや。
ほんとうに。

森見登美彦という作家は天才ですよ。いや、天才のひと言で片づけてしまうのはよろしくないですが。ほかに類のない作品を世に放つ作家さんとして、かれこれ猫目は10年前より敬服しております。

はじめて読んだ森見作品は『きつねのはなし』という一寸奇妙な世界が描かれた作品でした。

そこにはテーマがあれど、なかれど、”世界そのもの”がしっかり根を張っているように感じられました。

それ以来、これでもかというくらい森見作品を読み漁ってまいりました。ふとした瞬間に「もしや、自分はなにか見えないモノに憑りつかれているのではないか」と薄っすら恐怖を感じたことさえあるくらいです。

わくわくハラハラするストーリー
心がすーとやすらぐストーリー
感極まる切ないストーリー
甘酸っぱい恋のストーリー
頭をフル回転させるストーリー

と、世の中にはたくさんのすばらしい作品が存在します。しかし、ここまで物語の中に世界を確立している作品もめずらしいでしょう。

『きつねのはなし』を読んだのは秋田県の旅館で、お盆に短気アルバイトをしていたときでしたが、不思議なことに小説を読んだ翌日には「あれ? ここって京都じゃなかったっけ?」というすさまじい錯覚に陥っていたことを覚えています。

それくらい、物語中の世界が確立されているのです。まるで、勤め先の旅館が夜のあいだに一人歩きをし、京都の街へやって来てしまったのではないかという一種異様ともいえる妄想を拭うのにどれだけの時間を要したことか。

おかげさまで

朝食の支度をお手伝いしている際も、厨房に並んだ漬物を目にするがはやいか、女将さんに「そういえば京都って漬物が有名なんですよね?」となに食わぬ顔で妙ちくりんな質問を飛ばしておりました。

そうして1日、夏の秋田という過ごしやすい気候の土地でせっせと働くことで「やっぱりここは秋田だ。まちがいない。十和田湖って書いてあるもん」と湖畔に立つ看板をしげしげ見つめては頷き、名産の稲庭うどんを食べ、そうして夜になって本をひらけば、ふたたびきつねに化かされ、京都の入り組んだ路を彷徨するというサイクルをかれこれ3週間はつづけていました。

十和田湖と遊覧船
ご近所の民宿さんと、看板わんこ(?)
いたるところで「秋田県」だという証拠を見つけることができたので、たぶん、秋田に居たんだと思います。

そのとき、猫目はある意味ではじめて実感したんです。

小説を読めば本当にどこへでも行けるんだ、と。

当時(19歳だったかな)はそれくらいのことを、ただぼんやりと感じていただけだったのですが、最近になってふたたび「物語における世界の確立」の重要さに気がつきました。

小説は、おもしろいだけではダメなんだ。

次から次へと読者を退屈にさせないために、リズミカルでテンポの良いストーリーや会話を展開をしたって、そだけでは世界は確立されないのかもしれない。そもそも舞台(地面)ががふにゃふにゃした街では人は安心して住めないだろう。

あるいは、ふにゃふにゃした地面に適応させて細胞そのものが進化するのかもしれない。ふにゃふにゃした地面がつづくその街では、人間の容姿は変わっていなくては不自然だ。

などと、あらためて舞台の大切さを学んだ今日この頃、これからは、より”世界の確立”を意識して創作をおこなっていこうと思いました。

本日もさいごまで目をとおしていただき、ありがとうございました。来週(土)もどうか遊びにいらしてくださいね。それでは、失礼します!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?