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なんでもいいから書く

どうしたんですか。この気候は。九月も半ばだというのにこれは一寸異常気象なんじゃないですか。35℃超えってどうなんですかねえ。どういうことなんですかねぇこれはと半ば問いつめられたがしかし

天候なんて正にどうにもできないモノの代表格ではないでしょうか。雨乞いをしたところで都合よく雨が降らないのと同様に、ましては温度の調節など、どだい無理な話である。

と心内で思いながら、猫目は「ですね」と笑う。

我ながらテキトウな返答だなとつくづく思うわけであるが、この癖は、なかなか治らない。ただ文章においてはテキトウに書かないよう肝に銘じている。心がけている。

だから

ここ最近noteを綴っていない。

なんて

いうと言い訳に聞こえるのだが(じっさい言い訳である)、ここ最近なんやかんやでちょっとばかし忙しい。休暇という休暇が、まあ、ない。

毎日いろんな方とお会いしている。
これはとてもうれしいことである。

だが、思う。
ふと、想う。

立てこもりたい。

否。

部屋に引きこもって1日中、本を読んでいたい。
読み漁っていたい。
動きたくないわけではない。
ただ本を読みたい。
心ゆくまで。
それだけだ。

もしくは

書きたい。


そろそろ物語の世界に
骨の髄までどっぷり浸かりたい。

だけれども

こうした意慾というのは、多忙のなかで生まれる欲望なのかもしれない。
だから、いま、忙しいのは良いことだろう。

平凡でも同じである。
あまりに毎日が同じに感じてしまうと(そんなことは絶対に無いのだが)、やはり刺激が欲しくなる。変わったこと、不思議なことに出くわしなくなる。あるいは自らでっちあげたくなる。

それが創作に乗りだす原動力となる。

毎日毎日いろんな人と会ってお話をするのはたのしい。
すごく愉しい。心からそう感じている。

だから

目の前の仕事に夢中で取り組むことは、苦でもなんでもない。

以前に

どれだけ忙しくてもnoteだけは更新しようと決めたことがある。だが、じっさいはどうだろうか。

多忙を極めてくるといかんせん”ゆとり”が無くなる。
余裕がないと思考が混沌としてくるものであるし、そうなると、綴る文字が全体的にふやける。あやふやになる。テキトウに書くことだけは避けたい。

精神と肉体はつながっている。連動している。
なので心に余裕がないと頭も大変なことになる。
ごちゃごちゃだ。
その証拠に語彙がパッと出てこない。苦笑。


これは頭の整理整頓が出来ていないからだということが、京極夏彦先生の書籍を読むことによって判明したのだが。

とはいえ

いくら整理整頓がされたとて、睡魔が相手じゃあ立てつけないのも事実である。いや本気の睡魔は手ごわい。

なので、寝るのがいちばんだ。
敵対心など曝けだしている場合ではない。
そもそも睡魔は敵ではない。

そんなわけでnoteの更新が滞ってしまった。

そんな言い訳をだらーんと述べてしまったことに対してすでに反省の念に駆られはじめている。

要するに
なにが言いたいかというと

なんでもいいから書く。

などという目標は昔の意地であり
現在、目指すべき目的ではない。

ということである。


そりゃあ、なんでもいいから書く、ということが場合によって必要なこともあるだろう。そういう訓練も時には功を成すだろう。だけれど、猫目はそろそろ「なんでもいいから綴る」ことから足を洗いたい。

なんでもいいからとサラサラ綴っていたら
第一、ことばに失礼である。

そんなことを続けていてはそのうちことばに見放される。

それは、いやだ。

だから疲れているときは、疲かれていることを認め、頭が働かないときはテキトウなことを並べないでおとなしく床に就く。

でも

それを繰り返していたら、こうなる。

noteの更新がおろそかになり、友人知人から心配のメッセージが入る。大丈夫か生きているかと案じられる。うれしい限りだ。更新されることを待っていてくれている。そのことがわかるだけで泣けるくらいにうれしい。

だから、更新はしたい。

ではどうするのが良いか。

ひとつに体力をつけるという策があげられる。
ここまで綴って20分。

文章を書くというのは想像以上に疲れる作業だ。
キーボードを叩いているだけ、といえば、それまでなのだが、まったく頭を使っていないわけではないのだから、やはり、疲れる。

昔のひとは、筆に原稿用紙にと、よくそれほど体力があったものだと感心する。真似たくても真似できない。

体力をつけることは大切だ。

それから

テキトウに書かないことも等しく大切なこと。
そう思うのだけれど、どうだろう。


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