見出し画像

書評『真理・政治・道徳』 ー真理という語彙の重要性についてー


はじめに


 本書は、Cheryl Misak, Truth, Politics, Morality: Pragmatism and Deliberation, London and New York: Routledge(2000)の邦訳である。本書の翻訳者の一人である加藤隆文氏が既に邦訳している『プラグマティズムの歩き方ー21世紀のためのアメリカ哲学案内』およびそのもととなる”American Pragmatists”(2013)を以前読んだ中で、ミサックのローティ批判に違和感があった。ミサックはローティを手厳しく批判しているが、実際にローティの主張とどれほど距離が離れているのだろうか?本書『真理・政治・道徳』は、ミサックのプラグマティズムが政治理論として展開されており、ローティとの距離を測る意味もこめて大変興味深く読んだ。
 以下では、ミサックの主張とローティの主張の距離を測りながら、「真理」という語彙をわれわれはどのように考えるべきか?ということを考察していきたい。

ミサックにおける「真理」


 ミサックがこだわるのは、「真理」という語彙がわれわれにとって決定的に必要である、ということである。第一章では「対応としての真理」への批判を当然のものとしつつ、ローティが「真理」という語彙を重要視しないことを批判しているのであるが、ミサックによれば、「ローティの理論は、彼の意図とは裏腹に、行為の友ではなく無為の友である」(p27)。なぜなら、ローティの考えでは、シュミットのような相対主義者に対して、「単に歴史的に条件づけられた理由」(p28)以上のことをいうことができないからである。
 ミサックの考えでは、プラグマティズムにおける真理は「真なる信念とは、調査と討議をどこまで続けても、反発的な経験や議論によって覆されることがないであろう信念」(p82)として定式化される。真理に未来のある点で実際に到達可能というわけではない。しかし、真理という考えがわれわれの間に保持されていなければ、われわれは理由を交換することにより進められる探究に参加するインセンティブを失ってしまうのではないか。ミサックは、真理は「探究の統制的理想」(p165)として必要であると考える。
 「真理」という考えを保持することによって、われわれはシュミットの主張するような相対主義に対して批判を行うことができる。pという主張を行うことは、pが真であることを主張することであり、その主張に対する理由を与えなければいけない。われわれは正しい信念を持つことができると考える限り、探究者の一員である。探究者である限り、他者の経験を考慮し、議論を行うことができなければならない。したがって、道徳には客観的基準がなく、あらゆる信念が等価であるというシュミットの主張は、他者の経験を考慮しなくても許容されることを主張している点で誤っている。
 ミサックによれば、われわれは道徳について1階の理由と2階の理由を持つことができる。1階の理由は「何らかの命題を指示ないし反対して提起される」(p176)ものであり、2階の理由は「真理と探究に関する認識論的な議論」(p176)である。実際の道徳的議論においては1階の理由が主に交わされるのであり、2階の理由が顔を出すのはシュミットのような、他者の経験を考慮しないことを主張する主張に対してである。1階の理由について、プラグマティズムが何か確定的なことが言えるわけではない。真理を擁護するというプラグマティズムの主張は、具体的な状況において確定的な答えを見出すことができる確実な指針を与えることができる、というものではない。ミサックにとって重要なのは、われわれは何が公正で何が不公正かについて有意味に語ることができるという2階の理由を擁護することであり、そのためには探究の統制的理想としての真理が必要であるということである。

ローティの「自文化中心主義」

 私には、ミサックによる執拗なローティ批判にもかかわらず、ミサックとローティの位置はそう遠く離れていないように思われる。
 ミサックのローティ批判の主要な点は、ローティはシュミットの相対主義に対して有効な反論手段を持ち合わせていない、ということである。しかし、この主張は誤っている。
 このことを理解するためには、ローティの「自文化中心主義」を検討する必要がある。ローティは、われわれの言語・自己・共同体の偶然性にもかかわらず、今われわれがいる歴史・文化的位置から離れて思考することができないということを「自文化中心主義」という語彙で表した。自文化中心主義、あるいはエスノセントリズムとは、まさに西洋中心主義的価値観に対する批判として用いられてきた語彙である。この語彙は、排外主義や他文化に対する偏見、自文化の優越意識を批判するためにしばしば用いられており、「自文化中心主義」を積極的に主張するのは何事か、という感想を一見して抱いてしまうが、ローティが排外主義的な価値観を擁護しているわけでは決してない。
 ローティの主張の要点は、われわれはわれわれが今持っている価値判断の総体からしか出発できないということであり、その内実は徹底した歴史主義かつホーリズムである。その立場はガダマーの解釈学とも近いと言えるだろう。われわれは、われわれの地平から抜け出すことはできない。ローティは言語・自己・共同体の偶然性を主張するが、だからと言ってあらゆる価値が等価であるとは考えない。さらに、ローティはミサックと同様に、デイヴィドソンの「寛容の原則」を支持する(『プラグマティズムの帰結』,邦訳pp103-138)。デイヴィドソンによれば、概念相対主義と、それに伴う「翻訳の不可能性」は問題にはなりえない。なぜなら、われわれがコミュニケーションを行うことができるためには、相手の信念を理解できていなければいけないからである。われわれは、われわれに共有されている価値規範にしたがって判断を行うことができる。

ミサックにおける循環


 しかし、ミサックはこの点においてローティに反対する。ローティは真理という語彙を重要視しないのであるから、少なくとも「ブルジョワ・リベラル」の文化において「他者の経験を考慮こと」あるいは「強制なき合意」という基準が議論において重要なルールとして受け入れられているとしても、同様の基準が他文化において受け入れられなければいけないことを説明できないのではないか。
 ミサックは、「真理」という概念があるからこそ、「強制なき合意」のルールは「ブルジョワ・リベラル」以外の全ての人々にとって受け入れられなければいけない、と考える。他者の経験を考慮すること、強制なき合意を希求することは「本当の信念」(p178)を得るための必要条件であり、文化に関係なく誰も否定することはできない。
 しかし、ミサックの議論には、循環がある。ミサックによれば、「本当の信念」とは他者の経験を真剣に考慮した結果得られるものである。では、なぜ「本当の信念」は他者の経験を真剣に考慮するものなのか?それは、われわれの主張は他者に対する正当化を行わなければならないからである。では、われわれの主張はなぜ他者に対する正当化を行わなければならないのか?それは、われわれが他者の意見を考慮に値するものだと認めているからである。なぜ、われわれは他者の意見を考慮に値するものだと認めているのか?それは、他者を自律した人間であると認めているからである。なぜ、他者を自律した人間だと認めているのか?それは、われわれが、歴史の中で、他者を自律した人間であるとみなすようになってきたからである。それは、平坦な道ではなく、一部の人間の意見のみを真剣に考慮するべき対象に入れていた時代が長く続いたが、時代とともに考慮すべき人間の範囲が拡大され、今では原理上全ての人間を考慮すべき自律した人間であるとみなすようになった。そもそも、なぜ他者を自律した人間であると認めているのか?この問いに確定的な答えを出すことは難しい。言えるのは、われわれは歴史のなかで他者の意見を考慮に値するものとして認めることにより、実践において成功することがあったし、他者の意見は考慮に値するものであるという考えは広く受け入れらてきたということである。また、人間学的に言えば、われわれは他者に承認されることによって初めて自己を確認できるのであり、そのためには他者を自己を承認するに値するものとして承認しなければならないだろう。この点は、アプリオリな真理というよりは、あくまで仮説である。しかし、どちらにせよ少なくとも、歴史的に、他者を自律した人間として認め、他者の意見を考慮することが重要であることが認められてきたとは言える。
 結局、ミサックの「真理」の擁護は、肝心のところで歴史的に正当化されざるを得ないのである。pであることを主張することは真であることを主張することであり、真であることを主張することは他者の経験を真剣に考慮することにコミットすることである、というミサックの主張は、「他者の経験を真剣に考慮すること」を真であることの自明な必要条件としているが、その主張は結局歴史的にしか正当化できないのであり、その主張を重要だと考えるわれわれの文化に根ざすものなのである。この点で、ローティの「自文化中心主義」の主張には説得力がある。
 それでは、われわれはシュミットに対して何も反論することができないのであろうか?答えは「否」だろう。ミサックが正しく主張するように、シュミットは自らの主張を正当化しようとしている点で、正当化実践に他者の承認が重要であると考えるわれわれの文化の内部にいるのである。ミサックが本書で展開しているように、われわれは、道徳的議論においても正当化実践を必要だと考えており、実際に行っている。道徳において正当化が不可能であるという主張は、われわれが実際に道徳の正当化を日常実践のなかで試みていることによって反論される。この反論が、ミサックの擁護したい「2階の理由」からの反論であるかは微妙なところであるが、「他者の経験を真剣に考慮すること」は、われわれが「1階の理由」を交換する際の前提となっているという点で、優先的なものであると認めることはできる。主張を行うということは理由を提示して正当化することにコミットしているということである。自らの正当性を主張するにもかかわらず理由の提示を拒否することは、受け入れられるものではない。
 自らの主張を他者に正当化する必要はそもそもないと考えている人々に対しては何も言うことができない、ということはミサック自身が認めている(p242)。結局、「ある種の非リベラルの立場」(p242)に対しては、自らの見解を強制することができないのである。そのような「ある種の非リベラルの立場」に対してわれわれが行うことができるのは、そのような立場に魅力がないことをさまざまな観点から提示し、われわれリベラルの仲間に入れようと働きかけることのみであろう。ミサックはローティの自文化中心主義を限定的に捉えるきらいがあるが、実際には、ローティの「自文化中心主義」は、ある点においてはかなり広範な範囲をカバーしていると言うことができる。さまざまな地域の歴史を見ても、他者の意見を全く価値のないものとして扱っている地域を見出すことは難しいだろう。多かれ少なかれ、われわれは理由に基づいた意見の交換を重要なものであるとみなしているのであり、その点で、ある種の「相対主義者」たちに対する反論は可能である。もちろん、すべての地域において「ブルジョワ・リベラル」と同レベルで「他者との意見の交換」が実践において重要視されているわけではない。現実には、いまだに意見の交換に値する「自律した他者」から排除されている人々が多くいる。しかし、そのような文化に対しては、基本的な理念が共有されている以上、(どれだけ説得が難しいとしても)メンバーシップの拡大その他道徳的な議論を行うことができる素地がある。重要であるのは、われわれがなぜ他者の自立を承認し、理由の交換を重要だと思えるようになったのかを歴史的に振り返ることではないか。
 自文化中心主義の真の限界は、理由の交換を重要とみなさない文化に対するに至って現れるのであり、その限界はミサックの議論の持つ限界と同じところにあるのである。

真理という語彙

 ミサックとローティの議論の射程が大きく変わらないことを確認したところで、問題になるのはその戦略である。ローティは「真理」を「強制なき合意」の観念を擁護する目的に対して重要性をあまり認めなかった一方、ミサックは「真理」こそ「他者の経験を真剣に考慮すること」の重要性を擁護することに最も役立つと考える。
 すでに言及したように、ミサックの「真理」は ①文化を超えて受け入れられると考えられるものであり、 ②探究の統制的理想である。それぞれの目的を達成するために、「真理」という語彙が本当に必要なのだろうか。
 ①について。ローティもミサックも、われわれにとって「強制なき合意」ないし「他者の経験を真剣に考慮すること」が重要であると考える。ミサックにとっては、自らの信念をもつという最低限の資格を満たす者すべてが「われわれ」である。ローティも、ミサックの言う探究者が「われわれ」の範囲になることについて、同意することができる。しかし、ここで「真理」という語彙を強調する必要があるかどうかについて、ローティは懐疑的になる。別に、われわれが「強制なき合意」あるいは「他者の経験を考慮すること」が主張という行為そのものにおいて重要だと言うことを言うために、「真理」という語彙を強調する必要はないのではないか。「真理」という語彙は普遍性や超越性を含意する響きがあるが、あえて「真理」という語彙を用いなくても、「強制なき合意」や「他者の経験を考慮すること」が重要であると受け入れられるようになってきた歴史的来歴を振り返ることによってその射程の広さと重要性を確認できるのではないだろうか。
 したがって、②について検討しなければならない。われわれは、「真理」という語彙がなければ、理由を用いて正当化を試みる実践に動機づけられないだろうか?ミサックのローティ批判において最も重要な部分はここにあると私は考えている。この点について拙速な結論を出すことは避けたい。ミサックやハーバーマスが指摘するように、われわれは「真である」「正しい」という語彙を日常実践で用いており、その点で、「真理」という語彙が動機づけにおいて重要な役割を果たしていることを否定できない。ローティはさまざまな論者と「真理」について論争を行なっている。この点についての結論は、今後の課題としたい。

さいごに

 いずれにせよ、ミサックとローティの距離は、ミサックが主張するほどには離れていないことは示せたのではないかと思う。残る課題は、「真理」という語彙の位置付けをどのように整理するかである。ミサックは、「真理」という語彙がわれわれの理由を交換する実践において大変重要な役割を果たしていると考える。一方、ローティも、「真理」という概念の必要性を完全には否定しない一方、「真理」という語彙に特別な意味づけを見出すことによって得るものは多くないだろうということも示唆している。私見では、自文化中心主義の含意する歴史主義を踏まえた上で、人間の実践と結びついた形で特徴づけられる「真理」の概念は、ミサック、ブランダム、ハーバーマスが示唆するように、われわれの実践において役立つようにも思われる。正当化の源泉としての歴史主義と、われわれの正当化実践の構造の明示化(ある種の自然主義?)は、現実の社会制度の批判を行う足場を確保する目的にとって、両者ともに重要なのではないだろうか。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?