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負けるということ

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。今年も甲子園が終わりました。福島で行われた中学校陸上競技大会も無事終わりました。大会やコンクールに限らず社会には勝った負けたの世界がたくさんあります。人々は自ら勝負に挑んだり、勝負を見届けることに熱狂的になったりします。勝負するということは、必ず勝者がいて、敗者がいます。負けるとは、どういうことなのか少し考えたいと思います。


「負け」の負のイメージから考えたこと

 「負け」というと悪い感じする。ゲームで負けた、競走で負けた、恋愛で負けた…「負け」という字をそのままに負のイメージが連想される。負け組なんて言葉もある。負けることで劣等感を生むこともある。かけっこでいつもビリだから体育の授業は嫌いだという子。テストの点数を友達と見比べて落胆し、勉強嫌いになる子。それが大人になるにつれてコンプレックスへと化すのだろうか。
 学校では、こうした劣等感をもたせないように教師は様々な工夫と配慮をする。私も体育嫌いをなくす指導の工夫を、研究会でよく議論する。「負けたけど楽しかった」と振り返りに書かれていたのを見た日にはつい嬉しくなる。一方で、ゲームやボール運動領域では、運動の特性に触れつつ「勝つためにはどうしたらいいか」という視点で思考・判断・表現力を伸ばそうとする。
 勝ったら嬉しい、負けたら悔しい、これは人間の感情として当然のことであるかのようだが実際はどうか。既に劣等感のある子は、負けて当然だから別に平気で、勝つための努力など無駄だと思っているかもしれない。では、そんな子がたまたま勝てたら嬉しくないのだろうか。
 「男気じゃんけん」というものがある。勝った方が、罰を受けたり奢らされたりする。あえて負けたい、勝ちたくないという普段とは真逆の心理をつくシステム。
 こうして考えると、ヒトは「負ける」ことそのものより、その後にくる負の感情や負のイメージを避けたい生き物なのだろうと考える。子どもとトランプをするときに、わざと負けてあげて相手の喜ぶ顔を見ようとする。ゴルフコンペで、上司に忖度してわざと負けるような。八百長なんて言葉もあるくらいで、「負ける」ことより、その先にあるプラスを求めることもある。

 先日行われた中学生の陸上大会。100メートルの決勝。1位じゃなかったのにガッツポーズで喜んでいる子がいた。その子は順位よりも、己のベスト記録の更新ができたことが嬉しいらしかった。自分の記録と勝負していたのだ。対戦相手は必ずしも生身の他者ではない。
 去年のオリンピック、パラリンピック。表彰台では、金メダルと銅メダルの人は笑顔で銀メダルの人は泣いていた。最後の結果が勝って終わったのが金メダルと銅メダル。負けて終わってしまったのが銀メダル。勝負が決したその瞬間の感情と表情がその後の表彰にも影響するのか。一方で、まさかメダルに手が届くとは思わなくて銀メダルでも喜ぶ人がいた。自分は、勝負の中でどの位置にいるのか予測を立てて臨んでいるのだろう。大会に出られるだけで喜ぶ人と、出るのは当たり前で優勝しなきゃ気が済まない人、勝負対する姿勢は始まる前から多様である。もちろんいざ勝負となったら勝ちにいくのだろうけれど。

 甲子園を代表とするトーナメント形式では、優勝者以外は全て敗者であって「負け」を味わっている。日によって勝ったり負けたりするリーグ戦とは違う面白さがたしかにそこにはある。その一試合で全てが決してしまう。人々はそこに熱狂的になる。「あのとき、ああだったから…」や「あのとき、こうしておけば…」がいくつも生まれては消えていく…。点と点が線になっていくように。
 鷲田先生はそのことを「トーナメント戦においてもっとも普遍的な経験とは、負けることだと言えそうだ。」と指摘した。

 負けたときに口惜しさ、苦労の報われなさ、それを思い知らされるという経験をもつことが、他者を思いやる気持ちを育む。そう、敗者を、人として一回り大きく、ということは強く、する。

鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』

 勝者は強者と見なされる一方で、敗者には敗者にしか得られない「強さ」が身にまとえる可能性がある。「強さ」の中身や質が異なるにしても。敗者は単なる弱者ではない。この場合、「負け」をどう捉えるかが重要だと思う。先述のように劣等感のトリガーとなってしまっては、這い上がることも難しい。バスケットボール漫画『スラムダンク』に「はいあがろう。「負けたことがる」というのが、いつか大きな財産になる」という大好きな台詞がある。
 「負け」を自己の中でいかにプラスに処理するか。このメンタリティを日常の中でどう醸成できるのだろうかと思案する夏。
 あまり勝ち負けにこだわるのは好きではないのだけれど、子どもたちの世界は大人が思っているよりシビアなのかもしれない。習い事の大会やコンクール、受験、就職…少なくとも学校現場からは評価(評定)がなくなればいいのにと思っている。内田先生は、今の社会は競争と格付けと差別化に溢れていると指摘する。学校もそれに倣って子どもを格付けする装置に成り下がっていると。
 相対的な優劣をつけることは悪でしかないのか。それでも高校球児たちは頂点を目指してひたむきに野球をする。優勝した子も、これまで何度も負けを味わったのだろう。優勝したからってこの先ずっと負けを味わわないことは決してないし、喜びもつかの間で、次の勝負がすぐ始まるかもしれない。絶え間なくやってくる、日常のそこかしこに内在する「負け」。
 「負け」というのはこうも複雑で普遍的なものなのか。


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