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そして誰もいなくなった 〜宮崎駿、ASKA、そしてあたくし〜

 宮崎駿が新しい映画を作ったというのが話題になっているようだ。2023年7月現在。やめると言っては話題になり、また作品を手がけてはそれが話題になる。「最後の閉店セール」継続中。

 それはおいとくとしても、まず宮崎駿の名を耳にするたび、どうしても私の中には複雑な虚しさがよぎるんだ。



いなくなる序章

【徹子の部屋】

 ずいぶん前に、徹子の部屋で宮崎駿が話していた。

 子供時代、戦時中。空襲を受けて皆が逃げ惑う中、叔父か伯父か知らんがその人が車を持っていて、自分はその助手席だったかに乗せてもらって、逃げようとしていた。

女性が走り寄ってきて乗せてほしいと頼んだが、オジはそれはできないと断って車を出した。

 自分はその時、乗せてやってほしいとおじさんに言いたかったが、言えなかった。

だから今自分は、その状況でちゃんと「乗せてやってください」と言える子供を描いている、と、いう話だ。

 徹子もふむふむと相槌を打ちながら聞いている。

自責の念と、理想ね。それが結実して、珠玉の名作の数々を産んだんだね。

ほぅ。

あるいは、ワタシは人格者なんかじゃないですよ、ほら、勇気が持てない弱い子供だったのです、という感じか。

ほぅ。はい。

ちょ、まず、次いきます。


ASKA

【紀元前】

 私は、ただただCHAGE&ASKAが好きだった。チャゲ&飛鳥の時代から。歌で救われた身として、感謝し続け、歌を作って歌う身として、尊敬申し上げていた。

あの人たちの歌と声は、2014年まで35年間わたしと共にあり、私の中にしみこみ、私の細胞を構成し、毛穴から染み出しているものだった。

もう、あれだね、DNAを書き換えてるレベルだね。

ある日、母が
チャゲアスのサインを持って帰って来た(笑)

「うちの娘がチャゲアス好きで・・・」
とぼやいたところ、
それを聞いた職場の女性が、
「好きならあげます、ずっとうちにあったから」(笑)と。
お兄さんがチャゲの友達だった。
地元の強み。

お母さま、職場のお方、ありがとうございました。

 2014年まで・・・それは私の紀元前だ。ライブのチケットの申し込み期間が近づくだけでそわそわして過ごし、いくつになっても何を着ていこうかとワクワクできた、幸せな35年間だった。

長い春だぜ。

 その紀元前ラストイヤーは、8月でまぁまぁキリのいいデビュー35周年の年で、ソロの活動が続いていた二人が久々にCHAGE&ASKAとしてステージに立つこととなり、それはもちろん、チケットそわそわ状態であった。


ギリ紀元前。


 ところがある時、チケット取り扱いシステム上の不都合がどーの、というような煮え切らない理由で、チケット発売は延期となる。 


【失楽園】

 信じられない報道が一気に流れたのは、5月。土曜日だった気がする。

目を疑うとはあのことだ。

逮捕とか薬物とかいった漢字と、自分の呼吸の一部であったような存在の名前の文字とが並んでいる。

そのあり得ない文字列が、ネットやテレビの中に急に溢れた。目に映っていることが信じられなくて、

説明を求めて、かえって記事を何度も繰り返し読もうとしたり、同じことしか言わない報道を、チャンネルを替えてまで確認しようとしたりした。

気がつけば、

音楽番組の録画のために彼らの名前をキーワード登録していたDVDレコーダーには、連日の夥しい数のワイドショーが録画されてしまっており、

全国でもローカルでも、有象無象が好き勝手なことを言い散らかしているという状況がわかってきた。ただただ削除し続けた。


【楽園外活動:手紙】

 世間の正義は、CHAGE&ASKAのそれまでの数々のヒット曲が薬物の力を借りた汚れたものであったとか、

歌詞の中に薬物を暗示する表現があるとかいった、知能の低い浅はかなやっかみや誤解にまみれていた。

そんな娯楽的無責任が渦巻く外の世界をできる限り遮断しつつ、

私は依存症についての本を集めて読み、その遠因ともなり得る毒親問題や、薬物の歴史についても知ろうとしながら、

「顰蹙は金を出してでも買え」と言っていた幻冬舎の見城徹氏に、ASKAの歌と現状を知らせる手紙を書き続けた。

 何か気づいたことを伝えるためASKAに本を送った時には、同じものをすべて見城さんにも送った。

私のアタマの中では、私と見城徹氏とによる「どれだけ顰蹙を買ってでもASKA再生プロジェクト」が発動していたのだ。

 バカだ。

 何年続けたろう、ほんとうに、あの頃はASKAか見城さんのどちらかにいつも手紙を書いて送りつづけた創世紀だった。

神話の中でいうとまだ地面もできていず、立つところも定まらない、すべてがドロドロなだけの時代だった。


【楽園外活動:柄杓で油】

 どうしたものか、と常に考えた。

 職場の大学の、自分の研究室のドアには、A4サイズぐらいのチャゲアスの写真と合わせて、薬物使用者を一義的に社会から排斥する無責任な思考回路を問いただす文章を貼り出した。

 そうすることで、せめて私の周囲の人々が、私との人間関係において煩わしく感じつつも多少の遠慮や気遣いを発揮し、

いわばこちらへの忖度の中で心無い責めの言葉を多少なりとも和らげ、あるいは呑み込んでくれるかもしれない。

 そうすれば、少なくとも私の周囲でだけは反吐の出そうな言葉の濃度が若干、薄まる

それは例えるなら、重油を運ぶタンカーから漏れ出て海面を広く覆ってしまった油を、たった一人、柄杓で掬い取る作業のように絶望的に果てしなかった。

けれど、動かないわけにもいかず、ほかに方法が見当たらなかった。
 

ドアに貼っていたのは、この写真。
しかし、ここでこんな画像をこうやって扱えるほどまでに
私には冷静さが戻ってきたのだなぁ。

今までは、見ないようにしていた。
なんか久々に目にすると、涙出るぜ。


 研究室の前を通る知らない学生が、え、と急に声をひそめながら、「チャゲアスが好きってこと?」とヒソヒソと言ったのが聞こえたことがある。

もしかしたらその後の何らかの言葉は呑んで、通り過ぎてくれたのかもしれない。柄杓で油・・・新しい諺だ。


 その頃は時々東京に行ってライブハウスで歌っていたが、自分の出演中、ピアノの前に座ったまま決死の演説をしたのは、無責任報道真っ盛りの6月だった。

「わたしは、CHAGE&ASKAが好きです」と話し始めると、客席の後ろの方の女性たちが声を立ててわらった。

「自分たちは責めてこられないとわかっている場所から一方的な理屈でキレイゴトを振りかざすのは、なんっの正義でもありません。」

 練り上げた文章をきっちり暗記して準備していった私の演説は、その後数分続くことになる。そのリクツを聞かされたその客たちがどう感じたかは知らないが、

出演後にそのライブハウスの店長は、擁護する側の考えも聞きたいと思っていたので聞けて良かった、というようなことは言っていた。

柄杓で油だ。


バカだった。


【楽園外活動:酔拳】

 飲み屋に入った際にはいつも、不特定多数の人々の無数の言葉をピリピリ警戒していた。

もしも他の客の席で、ときに酒の場の冗談として、あるいは下世話な時事談義の流れから、

もし万が一にも

チャゲアスやASKAを揶揄するような、無責任な言葉が聞こえて来でもした日には、私はすぐさまその席に立って行って、

ねーねーそのような言葉を使うのはやめましょうよ、

と渾身の笑顔を作って懇願するつもりでいた。


バカだ。


 決して喧嘩を売る態度にはならぬよう、けれど一言は必ず伝え、訴えよう。人がいる場では常にそう決意を新たにしていた。

 実に幸いなことに、そんなふうに私が反応しなければならないような、胸を抉られるタイプの言葉は、私のところには聞こえて来なかった。

偶然だったのかもしれないし、私の悲痛な無意識が、浮かれたお客たちの無意識の悪ノリを未遂に終わらせていたのかもしれない。

バカな気構えだった。おバカ。


【楽園外活動:イメトレ】

 どうしたらあの人の、あの人たちの、歌がまたこの空の下に響くようになるのか、何もできない私は考え続けた。

 ASKAがステージにもう一度のぼろうと手をかけている下から、私はそのステージ衣装の革靴の底を両の手のひらで直接支えて、押し上げ続けている、

そういうイメージを本気でずっと持ちながら、考え続けた。

写真は、イメージです。


 靴底を押し上げる私の両腕はぷるぷる震えていて、でも力を抜くわけにはいかず、とにかく、この手のひらで受けている足をステージの端にかけさせようと必死だった。

 馬鹿だった。すべて。アホか。アホです。おバカ。

宮崎駿

【On Your Mark】

 ジブリの "On Your Mark" は、CHAGE&ASKAの "On Your Mark" のコンサート用の映像で、プロモーションビデオでもあった。

 宮崎駿が「大いなる勘違いをさせてください」とかなんとか言って引き受けたというショートアニメだ。

 この曲をクライマックスに据えたライブツアーでは、いったん二人もステージからハケて完全にこの映像だけを始めから終わりまで流す構成になっていて、

映画館のスクリーンの比ではない大大大画面で、私たちはこれを観た。私は何ステージも行ったから(テヘ)、何回も大画面で観た。95年のことだ。

左がCHAGEで、右がASKA。
中央で飛んでるのが、あたくしです。

 それから20年近く経って、私がピリピリした楽園外活動を続けていた頃、ジブリがそれまでの作品のサウンドトラックCDとかDVDとかを、何十周年かの記念作品集として発売することになっていたようだ。

たしか、ASKAが騒がれた年の6月に発売予定だったんだったか。"On Your Mark" もその中に入っていた。

 そりゃ、入るだろうよ。

 最近知った解説によると、放射能で荒廃した未来の世界を描いたそのアニメには、依頼したチャゲアス側にも理解できないように、その随所に「悪意を偲ばせて」あって、

「たぶん、世界のアニメの中で最も過激な冒頭90秒」と言えるのだそうだ。結果として「宮崎アニメの中で最も過激な作品と呼べるもの」になっている、と言う。

 その「それまでアニメで誰も描いたことのないようなシーン」は、その後のアニメの虐殺、突撃シーンにも大きな影響を与えているのだとか。

 もともと全然そんな歌詞じゃないのに。こわ。「大いなる勘違い」という名の「悪意」ね。いいぢゃん。

 しかし、実際に解説を聞くとなるほどと思えるが、そんな悪意なんてチャゲアス自身わからぬままに、コンサートのクライマックスで上映させられてたなんて・・・(泣)

 こっちもそれをおとなしく観て・・・(泣)

 でもー、じゃあー、言うてしまいますけど、実はコンサート中に映像が流れ始めると、

もうライブの構成を知ってるお客も多いし、これから映像終わるまでの6分半はチャゲアスは出てこないとわかってるから(笑)、

けっこうな人数が、トイレタイムと割り切ってぞろぞろ席を離れてたんだよねー。

コンサートを十二分に味わいたい、その中に浸りたい、といつも思っていた身としては、メインテーマ曲の映像でトイレに立つなんて無粋な客たちだと思っていたのだが、

この、ハヤオの悪意がスルーされていたと知ると、笑ってしまうわ。

無知の逆襲だ(笑)

 ふふ。

 どんなにお前らがチャゲアスに気づかれない意味を詰め込んだと喜んでても、チャゲアスの客はチャゲアスしか見てないのさ(笑)

 世界一過激な冒頭場面であろうがなかろうが、そもそも冒頭から網膜に映してもいないのさ。小気味良いぜ(震え笑)

 そして、思うわけだ。

 実に詳しいその解説を聞けば聞くほど、よくもまぁ、ジブリはあっさりそれを作品集からはずせたよなぁと。

さらにハヤオへの理解不可能さは倍増する。


【スピリット・オブ・クリエイターはいづこ】

 ジブリ的には大事な記念作品集の発売間近に、ASKAが世間で騒がれてしまった。

 それがどうした、そんなこたぁ取るに足りないことだ、と堂々と蹴散らせるのが世界のハヤオじゃないのかぇ?

 ”On Your Mark" を制作するに至った事情についてもその解説に詳しいのだが、

ジブリは、経営危機に瀕していた時期、何かメジャーなものを手掛けなければこのままではジブリは倒産してしまうという不安の中にあった。

そこに舞い込んだメジャーなJ-POPアーティストからの依頼が "On Your Mark"。チャゲアスの知名度は、喉から手が出るほど欲しいものだったそうな。

ジブリ、そんだけ恩をしっかり受けとるやないか!

しかも、はっきりしておきたいのは依頼も制作も、そもそもASKA騒動より20年も前のことだということ。

 でありながら、ジブリは当初予定されていた作品集の発売時期を延期してまで、わざわざ "On Your Mark" を除外して作り直したんだよな。

ほぅ。

 ASKA容疑者が逮捕された(こんな文字列、いまだに書きたくはないが)から "On Your Mark" の収録中止、それに伴い発売延期、という判断の短絡さは、

まぁまず世間一般向けの体裁として100歩じゃ足りんから5万歩は譲るとしよう。

 問題は、その先だ。

 クリエイターとしての胸襟というか、20年も前の大事な作品に関する過度な対応をせざるを得ないことの、世間とのバランスの説明とか、なんか、なんか無いのかね・・・

と、私はジブリのサイト全体を探したつもりだが、短いコメントも何も見つけられなかった。

 結局、ただ単にCHAGE&ASKAを自分らとは関係ないものと切り捨てた、ということか。そう判断せざるを得ない。

翼のあるのが、あたくしです。


 あんな報道ひどすぎるじゃないか、あそこまで言うことはない、

とバカの渦巻く真っ最中にちゃんとコメントした人だっているんだ。桑田佳祐とかね。

あるいは、やってしまった行為そのものと本人の才能を、きっちり分けて言及した山下達郎とかね。

一言伝えようとする意思があれば、どうやったって伝えられる。

 アニメに魂を込めてきたというのなら、"On Your Mark" も大事な作品の一つだったはずだ。今も作品として高く評価されている、大事すぎるほどの作品じゃないか。

それをあっさり捨てて、ノーコメント。

 CHAGE&ASKAのそれまでのメガヒット曲もクスリの力を借りて作ったのだろうというような世間の浅はかな憶測が、才能へのやっかみの上に乗った屁理屈だということぐらい、

創作者であればわかって当然だろうに、その騒ぎ立てる世間という「表面」の方を優先してしまって、

自分の作品も、タッグを組んだ相手をも、さっさと切り捨てるジブリや宮崎駿の態度に、私は軽蔑すら覚えた。

 納得できる事情説明に辿り着くことができるまで、この感情は変わらない。創作者としてハヤオを軽蔑しています。


【ダサいの好かんのだす。】

 ここまでハヤオの発言と方針の不一致が喉に刺さった魚の小骨のようにしつこく私に引っかかって抜けないのは、

宮崎駿が徹子の部屋で自分を語った場面を覚えているからだ。

 「あの女の人も車に乗せてやって」と言えなかった宮崎駿が、

そう口に出せる本当の勇気、本当の正義感を捨てない子供を描いた作品で評価され、輝かしいイメージを築き上げ、影響力、発言力も手にしていながら、

「世間が騒ぎ立てていることぐらいで、自分のあの作品の価値が左右されることはない」と言うことをしない。

 え、あ、そうか、ひょっとして、"On Your Mark" をわざわざ除外したCDやらDVDやらの作り直しって、

今も自分は世間という大きな力に流される側にいて、大事な一言を口に出す勇気が無いままなんです、流されとくためには商品の作り直しのテマヒマぐらい当然です、

と世の中に伝えるための告白、懺悔だったと受け取っていいのかぇ?

回りくどいわね。口にはしづらいから態度で示したということか?

 あるいは、世間一般の人たちが無責任に振りかざしている正義の方が、本当の正義だと本当に思っているってことかぇ?

 クツリはイケマテン。ヤクブツやっちゃったヒトはみんな悪でつ。清く正しいボクタチはそんな人たちとは無縁でつ。こっち来ないでクダタイ。

んーなら、どっかにそう書け。

そう言え。
徹子に言え。

言ってない。
書いてない。

黙ってDVDから外しただけ。ノーコメント。

正義感への自責と理想はいづこへ。

ださ。

ダサいの好かんのだ、オレ。

ダサいのは、キライでつ。


あたくし

【次。】

 私の主張は、そこで終わらない。
 今さらだが、私はASKA信者ではない

 えーっ! 今さらー?

 そうです。バカな行動はとるが、信者、亡者ではない。

 そう言うと、いやいやいや・・・と周囲は笑うが。私はいたってマジメだ。

 チャゲアスをあんだけ愛していても。無条件にASKAを擁護してきたわけではない。

 彼らの人気が高まってチケットをとりづらくなってからは、できるだけ取り損ねる事態とならぬようファンクラブにも入っていたが(いや、だから信者だろ。いいえ、ちがいます)、

入る前にも入ってからも、気持ちは常に「いつでも彼らを嫌いになれる距離」にいた。これは彼らを愛し続ける私のモットーだった。

いつでもキライになれる距離なんだよ。
こんなに近くで
ライブDVDにまで映っていても、な。


【自分にチューニング】

 この人たちの歌が好きだと感じて以降、いちばん嬉しかったのは、中学か高校の頃のある夜のこと。

昔のラジオのつまみを捻りながらチューニングして、どこかの局に合わせようとしていた時、

ガーガーザラザラという雑音の隙間に小さく小さく聞こえた一瞬の声の波が、何かとてもそそられる響きを持つメロディと声であるような気がした。

 誰だ?

 どこかアジアのよその国の音声がまじって聞こえることもあるし、ひょっとしたら日本の番組じゃないのかもしれないが、それにしても

 どんな歌だ?もっと聴きたい、

と、たった今通り過ぎたあたりの周波数につまみを戻しながら、雑音の中で微調整を続けた。全神経を耳に集中させてガーガーザラザラをかき分けていくと、

あ、なんだチャゲアスだった、

とわかった瞬間があった。

 あれが、この半生で何より自分の感覚に満足できた瞬間、不動の一位だ。

 どうニュートラルに暮らしていても、ああ私にはこの人たちから発せられる波のようなものが心地よいのだ、それをアタマではなくカラダ全体で知っているのだ、

と実感できた時の、自分への信頼と誇りのようなもの。

 あれは、ファンクラブの年会費を払ってるから他の歌手より特別感を持って好きでいる気になりがちな大人の感覚とは、別格すぎる別格の「好き」のリアリティだった。


【エントロピー増大を防ぐ】

 その感覚を、数十年間、私は一度も変えていない。

飲み屋で他の席にでも立って行く決意を持ち続けたのも、自分の中のそのリアリティを守るためのものだ。

 そう。あの数年に渡って、泣く子も呆れる勢いでぷるぷるとASKAの靴底を押し上げ続けた意識は、

ASKAやチャゲアスを守るためという気持ちを超えて、自分の細胞が崩れて流れ出してしまうのを防ぐためだったのだな。自分自身を維持し、守っていたのだ。

 ・・・けれど思えば、彼らを知ってからずっと私は、私自身を維持するために、結局は、偶像を築き上げてしまっていた

偶像を築き上げるのが信者だとすれば、確かに間違いなく信者だ。いや、信者どころではない。

CHAGE&ASKAという他者の存在を楽しむのではなく、自分自身の維持のために掲げ続けていたその偶像は、そのへんの信者が持つ偶像よりも果てしなく尊大で、肥大化していたのだった。

 ASKAは、自分はそのアーティストスタイルから記者会見を開いて謝罪するようなことはしないと断言していたし、その分、歌で納得させるという決意として、私も受け取った。

 でも私の偶像は、自分でハードルを上げに上げた大事な復帰のステージで、結局うまく歌えなかった。偶像に、ヒビが走った。

この時期は、崩壊前夜。
ASKAはもう十分
苦しんでた頃なんだ。

ただ楽しんでいただけの、あたくし。


【あ、今のノーカンね】

 かつてASKAは、やはりソロのステージであまりに喉の調子がひどく、ステージ中にスタッフに耳打ちしたかと思うとやがて会場の責任者的な男性が出てきて、客席に向かって

「日を改めて同じ会場、同じお客さんでもう一度コンサートを行いますから、今日のチケットの半券は捨てずに持っていてください」

と告げるという事態になったことがあった。確かにあの時もひどかった。

 デビューして間もない頃にも不出来だったステージのやり直しを頼んだが周りの大人たちが認めてくれるはずもなく、実現できなかった、という話を聞いたことがある。

 一回一回のステージにかけていた若い熱意を語る文脈だったとは思うが、とにかくASKAとはそういう発想をしがちな人なのだろう。

 その発想も、そして実際にそんな主張を通せる力を持つに至って実行できてしまった事実も含めて、結局すべて甘えではある。

 けれどまあ、私は信者でしたから、そのやり直しライブの時は、単にそれを大掛かりな招待イベントとして楽しみに待ったし、1枚のチケットで2度も会えたプレゼントのようなものとして喜んだし、

実際に約束された日のやり直し会場で、今度は見事に伸びやかな声に包まれた時には、もっと単純に嬉しかった。

 紀元前だからあり得た、のどかな季節の話だ。

その半券、ずっと大事タカラに
持っていタカラ・・・探したが、無かった。

紀元後のオトメゴコロで、
捨てたらしい。


【ノーカン無し:1曲目】

 しかしさすがに、今回はそうもいかない。

 大言壮語した復帰の始めに、そんな甘えはあり得まい。

 リンゴをかじってしまい、楽園を出てから4年半ほど。オーケストラを従えての堂々たる復活劇が展開されるはずだった復帰第1弾ソロコンサートで、その歌は、最初から聴くに耐えなかった。無惨だった。

 1曲目から私は愕然とし、うなだれた。

 イントロを聞けば、次の歌も熱唱系だとわかってしまう。その次も。ああ、次もごまかしようがないやつか、と歌が始まる前からツラい。容赦ないオーケストラ。

 決して言い訳は許されない、体調も何もかも万全に万全を期して臨んでいてしかるべき場面での、情けない歌声に脱力して、私は客席で涙を落とした。

 周囲の客って、どうだったんだ?

 鼻をすすりあげる音は、ところどころから聞こえてきていた。あすかさんがもどってきた、と嬉し涙でも流しとったやつの方が多いんじゃないか?

 なにせ、私がASKA擁護のツイートをすると、隠れキリシタンのように肩身の狭い状況にあった人たちの「涙出るぅ」的な反応があったのだけれど、

ちょっと厳しいことを書くとシン、としていたという印象がある。あの会場で、私と同じ悔し涙を流したやつは、いったい、どんくらいいたんだろうかなぁ。


【サンパレスで半生を振り返る:3曲目】

 一緒に行っていた同居人が、3曲終わった頃に左隣から耳打ちしてきた。

---オレはもうこんなひどい歌聴いてられないから出る、アンタは最後まで聴いてくればいい、オレは外で待ってるから、と。

 私ももう、ここにいても辛いだけだと思っていたところだった。

---気持ちを整理して一緒に出るからあともうちょっとだけ待って、と小声で伝えた。

 その時にはもうそれまでの数十年を振り返っていたような、頭の中が混乱して何も考えていないだけのような、変なダウナー感覚

 ただ、今席を立って出て行ったら、私は自分の性格上、きっと二度と死ぬまでこの人の歌をこうして聴こうとすることは無いだろうとは予測できたので、

この人たちに間違いなく心を救ってもらってきた自分のために、冷静になろうとしていたし、

ステージに立つこの人の姿を、既に見納めのような感覚でしばらく味わおうともしていた。

翼のある方が、あたくしです。


【CHAGEは、不動明王】

 CHAGEは、自分の置かれた状況を、

「音楽が僕を試しているんだと思います」

と淡々と穏やかに語り、その音楽にますます磨きをかけたソロのステージをずっと続けていた。

 そのライブの力強さといったら、神々しいほどで、完成度の高さと瑞々しく殺気立つエネルギーに、私は唸らされた。底知れぬ力も湧いた。

 その時の状況まるごとを歌う楽曲 "equal" は、紀元後のCHAGEのことであり私たちのことであり、

それを歌うCHAGEの、渾身の、と言うだけでは足りないビリビリと電気が走るようなあの分厚い空気は、いま思い出すだけでも鳥肌が立つ。

 あれは「歌っている」というより、「発している」という感じだった。発光していた。


【CHAGEは、慈母観音】

 彼は決して私たちにASKAを悪く言わない。触れないわけでもない。

 CHAGE&ASKAの楽曲はやっぱり「良い」から、これからも歌っていく、とステージではっきりと言った。

 深夜にレコーディングをしていた時に店屋物を取ってみんなで食べた、というような、一曲一曲への良い思い出がたくさんある、と話してくれた。どれだけの嵐と孤独だっただろう。

切り捨てる選択肢だってあろうものを。ハヤオと全然ちがーう。

 彼がそうやって決意を語るために「CHAGE&ASKAの」と初めて口にした時、

その時に聞こえたアスカという声の響き自体の潤いが、ひからびていた私にはとても懐かしかった。優しさもあった。

 ASKAの方はそれまでの不満や拗ねたようなリクツを公の場にさらしていたけれど、それをも包み込むCHAGEの広さが、紀元後は特に引き立った。

 あの人たちがそもそもそういうバランス関係だったのだろうということは、長く彼らを見つめてきた人たちにはわかることだ。

対外的には、落ち着いたASKAとおふざけキャラのCHAGEというイメージがあっただけで、実は舞い上がりがちなASKAを、いつもCHAGEがしっかり掴んでいた。

 まさにCHAGEの慈母観音のような懐の深さに惚れ直す瞬間が、紀元後、何度も訪れた。

だからこそ、いつかまた二人が並んで立つ日は現実味を持っていたし、(まぁこの先、無いともいいきれんわけだが、それはもうワタシは知らんけど、)とにかくずっと私もそれを夢見た。

 二人の邂逅が、ただ懐かしむためのものでなはく、二人にとって、私たちにとって、新たな段階として訪れたなら、

そしてそこで絡み合う二人の熟した歌声がまた響き始めるならば、それはどんなにか嬉しいことだろう

と、新たに雄々しく立つ二つの見慣れたシルエットを、何度となく思い描いた。思い描い・・・ていた。福岡サンパレスでの歌を聴くまでは。

早く撮って!と焦っている
合法的ツーショット👍


【別れの時:5曲目】

 憧れに憧れさせ続けた挙げ句の果てに、自らの醜態でその幻想を打ち砕くとは、なんという残酷さだ。

 なんで、憧れる方がバカだと知らしめてしまうのだ。

 バカです。

 5曲目が、終わったのか、まだ途中だったのか覚えていないけれど、「もういいよ。行こう」と隣に声をかけ、二人で席を立った。

 これまでの数え切れない彼らのステージで、客席の私はその光に照らされ、

歌に涙が溢れるたびに、滲んでステージが見えなくなるのがイヤで急いで目をこすっては涙を拭い取った。

泣いている暇も無く、瞬きする一瞬をも惜しんで、ステージを見つめ続け、全身で歌に浸った。

その私が、ASKAの歌の途中で席を立つとは。

 もし、もう少しステージに近い席で私の言葉が直接ASKAにはっきり聞こえる距離だったら、

ちゃんと歌えこのバカ!

とステージに向かって怒鳴っていた可能性が十分にある。

 真ん中よりだいぶ後ろ、左寄りの席から、辛うじて罵倒の言葉を呑んだまま、ステージに背を向けて通路を、まっすぐ顔を上げて進んでいって、分厚いドアを押した。

 出て行く前に、閉まろうとするドアを体で止めながら半分になって、これがこの一生で最後だとステージを振り返り、ASKAをもう一度見た。

それは私の大きな「時代の終わり」の場面で、私は声に出して「さよなら」と言った。


【ロビーの根無し草】

 世間が無責任に騒いで弄んだ彼の罪のようなものによってなどではなく、私はその騒ぎから4年半以上ももがき続けた後、

ASKA自身のあのひどすぎた歌によって、初めて、すがるものが無くなったと強く感じた。

人生に困った。

バカです。

手前で闇に溶けているのが、
紀元前の真剣な私の左肩。


 客席から出て会場出口に向かうロビーは、当然のことながらガランとしている。

この数十年の間には、もっと収容人数の大きい会場や、他の都市での会場にも行ったけれど、この福岡サンパレスも何度となく通ったところだ。

 チケットを見せて入っていった先のロビーでは、いつもごった返す客で開演間近の軽い躁状態が共有されていた。

終演後には興奮した人の波の一部となってざわざわと外まで流れ出るのが常だった。

 入り口付近に黒いスーツのスタッフの男性がパラパラと立っているだけの、人気の無いロビーの床は暖色系の絨毯で、そんなものは初めて見るような気がした。

その床に、ぎりぎりと小さくぎちぎちに捻ったチケットの半券を叩きつけて、外に出た。

 寒い時だったのに、道路を渡ったところのコンビニでビールを買って、エーイッ!と外で飲んでみた。

よくあったなー、
記念すべき、その時の寒ビール姿。
真剣に悲しんで
泣いた後の、
こげな笑える姿を
おさめてくれて・・・
今は別れた同居人、ありがとう。


その3、4ヶ月後、通りすがりの町で。
そして結局、
さすらいのBeer。
しみたぜ。


【やれやれ、チケット】

 紀元前の楽園を出て無所属だったASKAは、復帰コンサート以前からブログで自由に発言するようになっていて、

そのちょっとした内容には、私はなんとなくそれまでに無いズレを感じるようになってきていたのだけれど、

その頃同居していた彼は、むしろその発言のバカっぷりを楽しんでいて、私よりもしょっちゅうブログを読んでは話題にしていたほどだった。

 私もそんな状況自体を楽しむようにしていたし、彼はそういう脱力気味の私を、

「発言はともかく、ASKAは歌を聴いて判断するものだ」などとも説得し続け、確かにその通りだ、と私も思っていた。

 実はその散々だったコンサートのほんの2、3ヶ月後に、強気なことに次のコンサートの開催が既に決定、宣伝されていた。

 長すぎた春の後、もうオトナになっていた私は、まず第1弾の復帰コンサートの様子を見てから第2弾に行くかどうか決める、とそれまでになく控えめな態度でいたのだが、

そもそも売り方がナニで、第2弾コンサートのチケット販売は、第1弾開催より前に設定されていたのだった。ほんに、強気なことだよ。

 なんだかなぁと私は引き気味だったが、その強気さも含めて、完全復帰を印象づけ、完遂する意気込みなのだろう、というふうに、

紀元前の名残で受け取ろうともしたし、

やけに冷静で慎重になろうとしている紀元後の私を面白がる同居人の、逆に盛り上がってASKAを楽しみたがる、そして私を楽しませたがる態度に、

私も乗せられて楽しむことにして、まぁいっか、と第2弾の二人分のチケットも買っておいたのだった。

 意図せずとも結局は、懲りないのぼせもんになってしまってるわなぁ。

おバカ。

ちぇ。


【そして、言いがかり】

 そして、あのボロボロ第1弾ステージだったわけだ。

お察しの通り?こんな私だもの、もちろん、ASKAにも文句を投げつける長いメールを送った。あのステージは、完璧でなければならなかった、と。

おバカ。

 それまでのいろいろ全てのことが、悔しかったのだ。もっとおいしい料理が食べたかった、と怒ったのではない。

満を持してここまで来て、そんな歌で復活しようとしていたなどと世間に思わせては、元も子もないじゃないか、という残念さだった。

 喉の調子が悪くて公演中止なんて、実際これまで何度も聞いた。そういうことがあった時に、

プロなんだからもう少しちゃんと調整しておくべきだというようなことをファンクラブのサイトの掲示板でコメントした人がいて、

贔屓の強い他のファンたちがそれを攻撃し、居場所をなくさせるというような、しょーもない内輪揉めがずっと前から起きていたりもした。

 そんなレベルじゃダメだったんだよ、今回は。

本当に、完璧を目指したじゃないか、自分でハードル上げてまで。それで、あれかよ。

 ほんとうにもう世間から許されたとでも思っていたのか、とまで書いた。どうしても、完全な復活劇でなければならなかったのに。心が、ポッキリ折れた。

「でなければならなかった」とか、アホ。おバカ

 思ぅてたカッコ良さとちゃう、などと言われても、そんなことはASKAにはただの肥大化したイチャモンなんだけれども。

やっとイチャモンだったと考えられるようになったのは、だいぶだいぶ経ってからのことで、

ピリピリした逆風の中で4年半勝手に積み上げた挙句に崩れ落ちた期待のガレキは、そう簡単には片付けられなかった。

 期待なんて、いっちばんしちゃいけないことです。

 わたし以外の人間が、わたしの望むとおりに動くわけがないじゃないか。

 おバカ。おバカは、あたくし。あたくしはおバカ。

あたしって、ほんとに
仁王立ちが似合う。


【そして、チケット】

 散々な第1弾は、11月か12月頃だった。年が明けてしばらくして、第2弾のコンサートのチケットが手元に来た。

 彼らのデビューから40年目、私が心から好きになってから39年目、初めてステージ上の彼らの歌を聴いてから36年目

初めての1列目のチケットだった。行かなかった。

 いつだったろう、正規のチケットがあっという間に売り切れてしまって、なんとかボッタクリ料金で国際センターの一番後ろの立見席をやっと手にしたこともあった。

ステージから遠い遠い、遠い一番上の段に立って、二人が「後ろも見えてるよ〜!」と叫んで、私はキャー!と喜んだ。

 背中に触れる暗幕の向こうは、この大きな空間の熱気とは裏腹な冷たさの、結露した窓ガラスで、

足場を整えようとちらっと後ろ側に目をやると、すぐ下にしんとした夜の駐車場が見えた。

 豆粒ほどにしか見えない遠い二人の歌は、でも私の心と体を確実に貫いた。距離は関係ないということを、私は心と体で経験して知っている。

 あの感覚は、もはやこの1列目のチケットで超えることはできない。

トゲにも見える翼を持つあたくし。
アタマは、ティナ・ターナー。


そして、誰もいなくなった。

【みんな、おバカ。】

 そして、このように考えて過ごしてまっていた私は、馬鹿でした。アホでした。というわけです。

 全部消えた。

 全部に一生懸命だった。だから全部消えた。

 どアホでした。馬鹿でした。バカでつ。それでよい。

 自己肯定と、共感共振と、絶望と、破壊。破壊の後には再生が続くだろう。

 そういう話です。宮崎駿も嫌いになった。ASKAもおバカ。何よりも、そんな他者に自分を投影して自分の一部としてしまっていた私が、バカKINGです。

 全部捨てたよなぁ、40年間のレコードもCDもDVDもパンフも書籍もチケットの半券も。CHAGEを聴くことまで、心が萎えてしまって休止状態。

 みんなバカ。CHAGE以外、みんなおバカ。あたくしを筆頭に。だから誰もいなくなった。そういう話だ。戦争の後みたいな。虚しい話だ。

 今も時々、私は夢の中でASKAにコンコンと説教する。あの時のアンタの歌は最悪すぎた、と。俺もそう思う、とASKAはおとなしく応える。

 バカKING。バカ王。あたくし。


 ぐるっと回って馬鹿一周して、自分のバカ記念に、このチケットはまだ持っています。バカでつから。バカでつ。

 ちがいます。ほんとは、なんかやっぱり捨てたくないからまだ持ってるのです、1列目。

しかも33,34番って、中央ブロックか・・・。

 そういう話です。


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=道程=


道は いつも続いていた
あなたへ 明日へ 街へ 港へ
道は いつから途切れていたの
あなたは いつから悲しんでたの

音楽が流れる川沿い 夕暮れ
懐かしむ暇は無い
今はまだひたすら
時の流れを信じておこう

月はもう 生まれ変わった
私がうつむくなどしていた隙に
新しい新しい風が すぐ
ここを抜ける

遠い昨日を惜しむことはない
時代と呼んで切り離してしまえ
人々はそのようにして いつも
風を味方にした

満月を呼び起こす もう一度ここから
世界は光で満たされる なぜなら
時の流れは夢を裏切らない

月はもう 生まれ変わった
私がうつむくなどしていた隙に
新しい新しい風が吹く
また始まる 聴こえる

遠いステージのギターの反射が
私の頬を照らした夜のように
光の方へ 立ち上がればやがて
再び 道は続く

月はもう生まれ変わった
私がうつむくなどしていた隙に
新しい新しい風が吹く
また始まる 聞こえる

遠いステージのギターの反射が
わたいの頬を照らした夜のように
光の方へ 立ち上がればやがて
再び 道は続く

やりきれない道
ただぬかるんだ道
細く 細く
ただ白く光る道


さち・ド・サンファル!(これもメロディ忘れかけておる)


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