草稿③無限についての考察

 無限とは如何なる概念か。この諸概念の指示対象は「時間」「空間」「数学」「幾何学」及び人間の表現する言語活動の多くに数多的に展開される。しかし外延的意味指定(指示対象)は可能だが内包的意味(語の意味内容)の定義には至っていない。今までにも無限という概念を万人に理解させる為に様々な仕方が試みられてきた。代表例を挙げるのならば『ゼノンのパラドックス』や『無限ホテルのパラドックス』であろう。しかし哲学者に質問すると何を聞いたのか分からなくなる。と言われるほどにこれらのパラドックスはその本質からズレている。これらのパラドックスは悟性により明証なものを理性により証明しようとし、原因と結果を逆転させたが故に生じる直感的な違和感である。悟性とは原因と結果の間にある因果関係を読み取る能力であり、理性とは悟性の読み取った因果関係を抽象概念(言語)として形成するものである。明証なものを証明しようとした例として以下を挙げよう。

『三角形の車輪を想像してみてほしい。三角形の車輪では走ることはできない。しかしそれが十角形ならどうであろうか?三角形よりはまともに走ることが出来よう。千角形にすれば凡そ人の目にはそれが円なのか千角形なのかの区別を付けることは難しい。角度を無限個足された幾何学はやがて円になり角度という存在自体が消滅する。』

 以上の命題は無限という概念を『幾何学』の面から説明しようとしたものである。これこそが明証なものを証明しようとした際に起こる理性の誤謬推理である。『円とは無限に角度のある幾何学である』という命題は一見頷けるように思えるが、この命題を反転させると『無限とは円である』という命題になる。円環とは明確な始まりもなく、また明確な終わりもない幾何学である。始まりもなく終わりもない幾何学こそ無限という概念の代理人ではないのだろうかと幾何学者は考えるのである。では円環とは無限という諸概念の代理人足るか否かを以下で考察してみることとする。

 円の始まりを数字で明示するならば円周率という言葉に行き着くであろう。既知の通り円周率の数値は3より始まり以下小数が無限に続く。しかしそれは可能性の話であり、数字の持つ無限の可能性とは区別されねばならない。現実世界に存在する円周率の桁は既に記述された有限な数字のみである。無限の円周率を記述するという操作は人間には不可能だ。「円周率は無限に続く」という命題も、「円周率」の全ての値がすでに決定しているのではなく、どこまでも展開し続けることができる可能性があるだけである。「円周率の値の中に「12345」という数字の羅列が並ぶか否か」という命題も、そこにあるのは可能性のみであり、その数値が人間によって記述されない限りこの世には存在しない。人は全ての有理数を記述することはできない。故に無限な数列など存在しない。存在するのは有限な数字の記述のみである。以上の言説に対し数学者はこのような懐疑的問を投げかけるだろう。

『人間に分からないようなことがあったとしても、それは現在の人間の能力が足りないだけで遥か遠い未来及び全能者でなら無限の正体をつかめるのではないか。』
 
 上述した通り全ての有理数を記述することは人間にはできないように思われる。しかしできないという証明も明確になされてはいない。それは時間の問題であり数学上の未解決問題同様に数学者は数学による解決法を模索し挑戦し続けるだけの価値があるのではないかと好奇心を抱くわけである。
では『無限』という諸概念には真理値を持つか否か。その縮小モデルとして『我々は如何にして1に至るのか』という命題に置き換え考えてみることにする。

1を3で割ると0.333…となる。0.333…に3倍にすると0.999…となり1にはならない。つまり0.999…≠1となり1に限りなく近い数値ではあるが決して1にはならない。0.999…を1とする方法は様々な方法が考案されてきたが、そのすべての説明に矛盾が生じ。0.999…=1を証明するに至ってはいない。故に数学上ではイプシロン-デルタ論法により上述の矛盾を無視する形で0.999…を1とすることとしている。ここで重要なのは数学的に0.999=1を証明することではなく数学は道具としての機能を果たせば内包的意味の確立が成されなくとも記号の操作は可能であり。外延的意味指定のみで機能するということである。草稿②を参照

「しかしながら、それは決して恣意的な慣習ではない。なぜなら、それを受け入れなければ、一風変わった新しい対象を発明するか、または算術のよく知られた規則のいくつかを諦めるかのどちらかが強制されるからである。」 

ゥィリアム・ティモシー・ガワーズ

 上述を踏まえると『∞×∞』『∞+1』『∞÷∞』のような記号操作は可能であり、等式となる回答も存在するのではないかという疑問が生じる。しかしこの記号操作は以下の理由により容認されることはない。

『無限という概念を集合と捉えるのならば、内包的意味を持たない集合の集合を集める作業は可能ではあるが集め終わることは不可能である。故に無限という概念はその要素をすべて集め終えたものとして捉えることは不可能であり記号操作として用いることはできない。』

故に無限が無限個集まったものなどという言説は理性の誤謬推理以前に白痴の領域である。

集合論は数学では全くよけいである。

論理哲学論考6.031

 無限は実在するかという命題は真か偽かではなく無意義である。無限とは可能性の性質であり現実の性質ではない。数学とは人間の産み出した世界を測る尺度である。故に人間を超えた全能者の尺度で観測するべきではない。時間と空間とは人間が世界を観測する為に用いるア・プリオリな認識方法であり世界に遍在する諸概念ではなく、自らの内に持つ世界の観測方法である。空間とは徹頭徹尾位置であり。時間とは流動性である。故に人間は何もない空間を思考することはできても空間そのものがない状態を思考することはできない。帯に短し、待つ身に長し、という言葉がある通り時間もまた、人間の意識の産物である。すべての有理数を記述することができないのと同様に時間の果てという可能性があるのみであり。有限な人間に観測する方法はない。故に私の表象としての世界が消え去る時、時間や空間という諸概念も私と共に無に帰す。

参考文献
論理哲学論考 意思と表象としての世界 無限論の教室 純粋理性批判 
確実性の問題 











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