草稿②規則についての考察 2022/08/14更新

虚数とはImaginary numberと呼ばれ数学上ではIという記号で表される。実数直線状に存在しない数として、本来存在しない数字だが弁机上、虚数を用いることで数学上の問題を解決することに用いられる。だが存在しない数という概念に惑わされがちだが、本来『数字』というもの自体、人間が作り出した記号であり存在しないものなのである。三角形の内角の和は全て180°になる。しかしそれは世界中の三角形を観測した結果得られた情報ではない。理論上無限にある数字を計算することができないように、現実世界にある事物を経験的に数字という概念に置き換えたわけではない。経験則から独立し、数学的『公理』と『定理』という『定義』を見出し、数字という記号を用いた演繹法として確立したものを数学と呼ぶ。かつてダフィット・ヒルベルトは数学における『無矛盾性』と『完全性』の両立を証明することにより、数学を完璧な教義へと昇華するべく『ヒルベルト計画』を発案した。数学者にとって自身が研究している学問が、かくも美しく完璧であることを証明するのは最上級の悲願である。しかし『ヒルベルト計画』はクルト・ゲーデルの『不完全性定理』により失墜する。ゲーデルは数学において『どのような公理システムにおいても、その内部に証明することのできない命題が必ず存在する』ことを証明した。『公理』や『定理』に規定されている『定義』は要素命題まで突き詰めれば『そう定義されている』という言葉に辿り着く。数学に限らず『規則』『法律』『常識』『モラル』といった人が作り上げたある種の『ルール』は『自己の正当性を完全に自己証明できない』にも拘わらず世の中に遍在している。クァンタン・メイヤスーの思弁的存在論によれば、この世界のすべてのものは、「偶然性の必然性」を持った存在であり、現在において絶対性を持っている定理でさえも、ある日突然覆る可能性を必ず持つとされる。*1

*1 ユークリッド幾何学(平面上)で考える場合、三角形の内角の和は180°であるが非ユークリッド幾何学(曲面)で考えるならば三角形の内角の和は270°になる。ユークリッド幾何学の公準は2000年間絶対的なもので間違いはないと信仰されてきたが、地球平面説が覆されてから曲面で幾何学を思考しなくてはならなくなり既存のユークリッド幾何学では対応ができなくなった。数学において何を原理に演繹をするのかという命題は、非常に重要な物であり、原理が間違っていては、どれだけ演繹が正しくても命題における真理値は偽となる。


「1+1=2」である。これは事実だ。いつの時代。いかなる国においてもこの事実は揺るがないとされている。だが2進数的に考えるならば「1+1=10」であり、排他的論理和で考えるならば「1+1=0」であり、ブール論理で考えるならば、奇数を論理値の真に、偶数を論理値の偽に対応させ"+"を論理和に対応させると「1+1=3」となる。現実に沿う形で考えるのならば、『一滴の水に更に一滴の水を加えると、より大きな1となる。』つまり「1+1=1」であるとも言えよう。私という個人も二人の人間から産まれた一人の個人である。だが多くの者は「1+1=2」であり、それ以外の解釈は恣意的であると答えるだろう。多くの者が慣習の基に賛同する「1+1=2」という算術が正しい理由は何か?如何にして我々は「1+1=2」という算術を唯一にして絶対的な推論であると言い切れるのだろうか?我々は今まで有限回の加法の規則に従ってきた。しかし数字という無限の対象に対し、我々は有限回の加法の規則しか適用していない。無限の対象に対しては、無限の規則と解釈が適用されるべきだ。演繹的にすべてを包括できる規則があったとしても、それを適用してきたのは有限回数である。『ペアノの公理』による『整数とは何か』『+』『=』という概念はいかなるものかを定義しようとも、それは有限回の適用であり。その「正しさ」を推論しているのは帰納法的な経験に過ぎず、帰納法的推論は蓋然性を超えて必然には辿り着かない。*2

以上のパラドックスは、あらゆる規則が一つの解釈だけに絞られることはなく、どのような解釈をも許してしまうことを示し、どのような解釈もそれぞれに理路整然とした正当性を訴えるものである。このパラドクスは数字に限った話ではない、人が言語を用いて意味を表す限り、けして抜け出ることのないパラドックスだ。何故なら、人は言語を有限回しか意味に当てはめることをしてこなかったのであり、その正しさは演繹的ではなく、帰納的な経験(周囲に受け入れられた)に基づいている。「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したように、語の意味は語の使用者の使用と行為によって確定する。故に他者にとっては語の意味は類推における『解釈』の域を出ず『解釈を超えて『理解』へは到達することはない。故に規則における『語の意味』は確定されない*3


*2 規則は行為を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方も規則と一致させうるから――これに対する答えはこうであった ―― いかなる行為も規則と一致させられるなら、一致させないこともできる。だから、ここには一致も不一致も存在しないであろう。 (『探究』第201節)

所謂ウィトゲンシュタインの規則のパラドックスであるが、このパラドックスの解決方法は、規則の『解釈』をするのではなく、唯従うことによって『解消』されるというものだ。要約するのならば『解釈』をすることによって生じるパラドックスなのであれば『解釈』しなければ良いのである。この解決方法には問題の『解決』ではなく『消滅』によって『解消』されるという論考と同じ手法が取られるが、些か腑に落ちないというのも事実である。規則のパラドクスは論理的に完璧であり、一つの規則に対し無限の解釈と適用を思考し解釈不要の予知に立たず解釈し続ける存在である(野矢茂樹氏曰くそのような存在は神である。)「神だからこそ突破不可能」であると言う。また、クリプキによる懐疑的解釈も提案されたが誤読であるとされ、賛否は別れるところである。以下は私の所見であるが、この規則のパラドックスは機械論の視点からの観測が適切であると思われる。『プログラムは人間が思った通りに動くのではない、書いた通りに動くのだ』という命題は規則のパラドックスの逆説的な位置付けであると私は解釈する。もし仮にパソコン側がプログラムという規則の解釈をしだしたら必ず動かなくなる。現実に思惟せずプログラムという規則に唯従うだけの存在であるパソコンは規則のパラドックスを容易に突破している。

右手を挙げる行為から右手を挙げるという行為を差し引いた時、その時残るのは「右手を挙げようとする意志」だろうか?(『探究』第621節)

*3 ソシュール記号学においておいてシニフィアン(文字・音)とシニフィエ(意味内容)の間には必然的な結びつきはない。ソシュールはこれを言語の恣意性と呼ぶ。


我々が何かを『理解』するということは、どのようなことなのであろうか?先に述べた通り無限の数字を計算したものはいない。何を持って我々は加法の規則を理解したということができるのだろうか。加法の規則を『理解』しているかどうかを確認するとき、我々はその『公理』と『定理』という『定義』を正しく使用しているのかを観測する必要がある。例えば「1+1=1」と答えた場合、これは加法の規則を『理解』していないと認識される。ではどこまで観測すれば加法の規則を『理解』したと言えるのだろうか?例えば1000問の問題があり半分を正解し半分を間違えたとしよう。この結果は『理解』に相応しいものなのだろうか?我々は何をもって無限の対象に対し『理解』をしたなどということが言えるのであろうか?無限の対象である自然数をすべて計算するのは不可能である。故に加法の規則を我々は無限の思考と検証と証明をし『理解』にいたるのではなく。我々はそれを『理解』するものではなく、そういうものだと『解釈』し身につけたのだ。*4

数学的教義における『1+1』という算術は、答えを求めているのではない。『足し算』という算術を解くことにより我々に『公理』と『定理』を植え付けているのだ。それを有限回反復することにより『公理』と『定理』は『定義という名の常識』として同化し、我々から『疑問』を奪い去った。広く共通する学説を唯一にして絶対的な学説であるかの如く押し付け『疑問』を排除し、思考の自由と多様性を否定し、思考の画一化を行い『啓蒙』を奪う。

*4 数学における算術以外にも他者にも同様のことが言えるだろう。言語とは意思疎通の為の道具だ。しかしその道具は使用者の語の使用と行為によって意味が確定される。しかしその発せられた語を当人の意図とは全く別の形で相手が『解釈』することは往々に少なくない。他我のパラドクスのように自分に心があるのと同様に相手にも心があるという事は凡そ分かってはいるが相手の心が分からない以上相手に心があるという類推は可能でも相手に心が本当にあるのか、それが人間ではなく犬ならばどうか?どこからどこまでの生物に心があり、どこからどこまでの生物に心がないのかという明確な線引きはできない。いやむしろこの世界には私以外に心を持つ存在などいないという命題でさえ、他者の心を知り得ないのであるならば証明は不可能なのである。故にこの世に全てを包括する概念である『理解』などというものは存在しない。あるのは唯々類推の果てに至った相対的な『解釈』のみなのである。カントの誤りは彼の発した義務論において差別と偏見を悪徳としたことだ。差別や偏見は、経験し統計し知識に変えて、目の前のものに憶測を当てはめ、きっとこうだろうと仮定することをいう。他者に世界に全ての可能性を検証していては人生が足りない。人は培った偏見に従い可能性を閉ざさねば一生を全うできない生き物だ。人生とはより正しい差別と偏見の繰り返しだ。差別と偏見とはア・プリオリな悟性の一環であり。人間の生において必要なものだ。しかし銃が人を殺すのではなく。人が銃で殺すのと同様に、その悟性の使用は当人に委ねられる。思考とはつまり我々の持つ悟性の使用であり、いつどこで何に対して使用されるのが適切なのかを考えることである。

カント曰く『啓蒙』とは理性を使うことを後継人によって禁じられ、後継人の指示を仰がなければ理性を使うことのできない人間のことを指す。本来学問において疑問とは最も学問的な行いであり本来後継人は、ありとあらゆる疑問に対し答えられるように準備しておかなければならない。例えば「因数分解ができたところで人生において何の役に立つのか?」という問いを適切に答えられる人間が果たしているだろうか?1192年に鎌倉幕府が誕生したことが人生において何の役に立つというのだろう?知識とは本来目的を果たすために必要な道具だ。類人猿は火を起こすことにより、寒さから身を守ったり、食材を調理するといった目的を達成する為に「火の扱い方」という知識を得た。だが今日の教義には本来道具が果たすべき『目的』が欠如している。必要のない知識を頭に入れるのは苦痛が伴う上に、必要のない知識はすぐに捨てられる。何の目的も達成できず必要性のないものを人はゴミと呼ぶのではないだろうか?そしてなんとも厄介なことに後継人は『疑問』を徹底的に嫌う。後継人は勉強をして、いい大学に入り、いい就職先に務めるという仮初の目的を与え、それらが達成された瞬間に今まで学んだありとあらゆる学問は、長い年月をかけて溜め込まれた高等なゴミとなる。後継人により、ありとあらゆる疑問は弾圧され、問を投げることを反抗と呼び、啓蒙を会得していない人間の理性を徹底的に否定することにより、啓蒙を会得していない者たちは後継人の判断がなければ理性を使うことのできない人間となり、後継人から離れられなくなる。そして後継人もそれを望んでいる。では、今は啓蒙された時代なのであろうか?否である。我々が現在保有する知識は全て他者の思考により享受され、それ故常識という名の楔により繋がれ我々の思考力を奪い去った。我々は産まれてから教義という名の思考の並列化を受け、また規律や道徳により縛り付けられている。我々の思想がそれらの産物であるなら、我々にとって個という概念は不在となる。では何故後継人は我々の公的理性の使用。つまり思惟することを禁じたのか?それは『疑問』と『解釈』を封じることにより『規則』に盲目的に従わせる事だ。自由と多様性と言う共同幻想を見せ、『解釈』を行わせないことにより『無秩序』を封じたのだ。しかし脱皮できない蛇は滅びる運命にある。我々はもう忘れてしまったというのか、思考を停止させ、それが悪だと認識していながらも実行した「私は唯命令に従っただけです」という悪の陳腐さを。

参考文献

論理哲学論考 哲学探究 永遠平和の為に/啓蒙とは何か プラグマティズム パンプキンシザーズ21巻 エルサレムのアイヒマン: 悪の陳腐さについての報告 ウィトゲンシュタイン「哲学探究」という戦い ウィトゲンシュタインのパラドクス





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