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地震は忘れた頃にやってくる

うっかりしてた。
大阪北部地震から丸3年が経過した。

今年はコロナの影響で地震想定の避難訓練も中止。「備えなければ」と、毎回思い返すきっかけになっていた避難訓練はやっぱり大切だ。

確実に地震はやってくるというし。
遅れませながら、備忘録として残すことにした。

ほぼ震源地といっても過言でもなかった大阪北部地震。あの朝もいつものように集団登校の集合場所にいた。マンション中央通路にはほぼ全員が集まり、そろそろ出発しようか、そんな時間だった。

2018年6月18日7時58分39秒


経験したこともない地響きと共に地面が大きく上下に揺れる。間髪いれずに大音量の地震警報アラームがそこらじゅうで鳴り響き始め出す。揺れは止まらない。悲鳴。子ども達が泣き叫ぶ。

「戦争が始まった」


体験したこともないが、宇宙船が地球を侵略しにきたのか、それとも北朝鮮の弾道ミサイルが落ちたのか、とんでもない恐怖に襲われた。

マンションの上から植木鉢が落ちてくる。揺れは止まないし、とにかく子どもたちを寄せ集め、見送りのために降りていた大人たちで囲むようにしながら安全な場所に移動した。

とにかく身を低くして揺れが収まるのを待った。

「これは地震だ」


揺れの方が先で、後からアラームが鳴ったぐらいだ。恐らく震源地に限りなく近いだろう。

震度は分からないが、大変なことになっているのは明らかだった。緊急警報を知らせる鳴り止まないアラーム、防災無線、平常心でなんていられない。

子ども達の無事を確認し、ひとまず徒歩3分の距離にある学校に対応を確認しに走ってくれた人もいた。

マンションの部屋から「もう家ぐちゃぐちゃになってる」と知らせに走ってきてくれたお母さんもいた。

たった数分でいつもの朝は一変した。


ようやく、「あ!家!旦那!」と部屋の方を見ながら電話をかけたが一向に繋がらない。家の中はどんな事になっているんだろう!?旦那は箪笥の下敷きになってるのでは!?真剣にそう思ったが、子ども達を置いて部屋には戻れない。とりあえず携帯を鳴らし続けた。

学校に直接確認しに行ってくれた方が戻ってきた。集団登校中の児童は、そのまま学校へ来てくださいという事だ。家の中はとんでもない事になっているらしいし、学校の方が安全なのは間違いない。

引率してくれているボランティアの方が、子ども達を学校まで連れて行ってくれることになった。

不安げな子どもたちに、学校の方が安全だからと言い聞かせて、階段で家へと急いだ。安否確認に各戸に声かけて回る自治会の人もいた。

玄関はいつも通り開いた。歪んで開かないことも想定していたので、ひとまずよかった。

旦那は下敷きになる前に飛び起きたようで、青ざめた様子だったが無事だった。

阪神淡路大震災も経験済なので(この辺りは断層もあり、被害も酷かった)、咄嗟の判断でまずはお風呂に水を溜め始めていた。子どもたちは学校で避難している事を伝えて、まずは被害の様子が分かるように写真を残す事になった。

「被害写真を撮る」これ大事です。
後の手続きにも役立った。

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被害を逃れたテレビをつけ、被害の様子、震度など、改めて震源地に近かった事を知る。

ひとまず、余震に気をつけながら片付け…。

キッチンなんてどこから手をつけて良いのか分からない有り様だったが、早く片付けないと帰宅した娘が心配してしまう。割れた食器などから怪我のないよう分担して片付けた。

途方に暮れたがやるしかない。
とにかく誰も怪我をしなくて良かった。

発生から数日間は、余震のアラームが鳴る度に心臓が止まりそうだったが、時間と共に徐々に平常心も戻ってきた。

使えなくなった廃棄の家具家財でマンションのダストヤードはえらい事になっていたし、市内のそこらじゅうの住宅でブルーシートによる仮処置が見られた。甚大な被害もあちこちで発生していた。

最大震度6弱。
日常生活が戻るには一定の時間がかかった。

しばらくは余震もあったりで、かなり過敏に生活していたが、よくないもので時間が経つとすっかり防災意識が薄れる。

避難訓練の度に怠慢さもリセットされていたが、今年は6月18日を過ぎてようやく思い出したぐらいだ。ダメダメ。

地震は忘れた頃にやってくる。

日頃からの心構えが大切。


以上、備忘録でした。


大阪だけではない。ここ数年、日本各地で大規模な自然災害が頻発に起こっている。

随分経った今もなお、生活に支障が伴っている方もいる。心よりお見舞い申し上げます。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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