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"花束みたいな恋をした"を見た話

今話題の「花束みたいな恋をした」、2回目を見てきてやっぱりいい映画だなあと実感したので感想をつらつら書こうと思っている。

本当に上質な恋愛映画で、恋愛の本質と過程を丁寧にリアルに描いていると思う。多くのポップカルチャー/サブカルチャーが作品名をぼかさず、映画を構成する要素として入り込んでおり、映画やロックバンド、本や漫画に漫才といったサブカルチャーをこよなく愛する身としては心躍る映画だった。

また、小説を捲るような感覚に陥る映画でもあった。この映画のメインである麦と絹の両視点から、独白のように語り手として心情が描かれる。またその表現方法が詩的でどこか文学チックでもある。

なぜこの2人の恋の物語を"花束みたいな恋"と例えたのか。千差万別の解釈があると思うが自分は、"花束のように美しく、色鮮やかで煌めいて見えた"恋であったということ。そして、貰ったばかりの花束にはトキメキが詰まっているが、その花には寿命がありいつか枯れてしまう儚さも持っているということが、まるで恋愛と似ていて、"恋はナマモノである"という作中での言葉が浮かんだ。

麦と絹は人とは"ちょっと変わった感性"を持っている"よくいる大学生"だ。

コアな趣味を持つもの同士。大衆とは違う独特の感覚を持つ2人。合コンの人数合わせに意味を感じられず、それなりに社会に迎合しつつ生活を送る。麦は人生で一番高揚したことがGoogleのストリートビューに映ったことであり、ガスタンクにハマるような趣味のある男の子。絹はトーストをバターを塗った方から落とすし、ミイラ展に心を躍らすような女の子。基本ツイてないし、人生も大衆も冷めた目で達観しているようにも見える。

この2人だからこそ似た価値観を持つ互いに惹かれるのだが、この"大衆とは違う感性を持つ2人"という部分。ここに恐らく所謂サブカル系特有の誇りやプライドを感じるところがどこか痛々しくもある。

映画作品にさして興味無いのがバレバレの映画チョイス、ジャンケンの仕組みに疑問さえ抱かない大衆に萎え、違和感を持つあたり。"ONE OK ROCKは聴かないのか?"という質問に"聴けます"と答えるあたり。

まるで私を見ているようでもあり、少し刺さる部分があった。なぜなら自分もまたサブカルに生きるものであり、2人のような痛々しさを持っていると思うからだ。コアな音楽や映画や文学を愛し、"コアな良い趣味を持つ自分"、"その良さをわかる自分"の感性を密かに大切にしていて、且つそこにプライドを持っていて、故に斜に構えて凡な感性の"大衆"を見下している。"サブカルマウンティング"という言葉があるが、サブカルチャーを愛する者はそこに"自分の趣味の良さ"や"人とは違う感性"という作品そのものの中身だけではない部分に価値を見出していて、サブカルチャー自体が自身のアイデンティティとなっている者も多くいるように思う。この2人や私のような者には刺さる部分があるのではないか。

そしてこの映画は一見、キラキラ大衆恋愛映画に見せかけているようで、実はリアルな恋愛を描いたコアなサブカル要素満載映画であったというのが、ある種、よくある王道恋愛映画へのアイロニーでもあるのではないか、と勝手に受け取っていたが、上記のことを考えると、その逆でもあり、キラキラ系大衆恋愛映画を見下すサブカル系に対するカウンターのようにもとれる。

序盤、2人がイヤホンのLとRの音の聴こえ方が違うことを説き、ひとつのイヤホンを半分こするカップルに対し説教をしに行こうとしてバッタリ落ち合うというシーンがある。あれは、結局2人は全く変わっていないということを表しているのではないか。他人から聞いた受け売りの知識をさも自論のようにかましており、サブカルマウンティング魂から抜け出せていないようにも見える。

さてこの映画のサブカルチャー要素に対する見解はさておき、この映画のテーマはそこではなく、やはり"恋愛のはじまりはおわりのはじまり"であるということだと思うのだ。

社会に出る前のモラトリアム大学生2人の恋愛のはじまりから、社会に揉まれ、大人になった2人の恋愛の終わりまで、その変化を丁寧に描いており、"恋愛には賞味期限がある"という色恋の本質と、2人の"変化しすれ違ってゆく価値観"を恋愛の過程としてリアルに描いていると思う。

前半にサブカル系がどうのサブカルマウンティングがどうのと語ったが、序盤、読んでる本を交換し合い、好きな音楽や好きな作家を共有し合い、このバンドのライブに行っただの展示や舞台に行ってみたいだの、そんなことを時間を気にせず語り合えるような、まるで鏡像のような同じ価値観を持つ2人が煌めいて見えて、それを共感と羨望の気持ちで見ていた。恋愛のはじまり、そしてそのトキメキと尊さを追体験できるような。

そして、後半。ズレる、歯車がずれていく。
一緒にゴールデンカムイの新刊を読んだり、好きな作家の本を順番に読みあったり、近所の美味しい焼きそばパンを食べたり、一緒にゼルダを進めたり、2人は最初それで良かったのに。

「いつまで学生気分なの?」と麦は言う。
手に取っていたのは"人生の勝算"。自己啓発本。前は、一緒に同じ本を読んでいたのに。思わず声をかけるのをやめる絹。
何も感じなくなった、と彼は言う。
"新刊も追わなくなった。舞台だって興味ない。映画を見ても感情が湧かない。パズドラしかやる気が起きないんだ。"と。

このセリフは世で働く万人に、きっと響くものになったことだろう(自分もその一人である)。

社会に揉まれ、大人になるとはこういうことなのか。好きなイラストを描き、趣味と自分の感性を大切にして、ひっそりとでも彼女とゆったり暮らすのと、安定した所に就職して、少しでも彼女を幸せにするために社会の荒波に揉まれ、心と体をすり減らしてでも金銭的に余裕のある生活をする。どちらが正しいのか。きっと、どちらが正しいなんてない。でも、見ていて切なくなった。

物語を読む、趣味を持つ、というのにはかなりのパワーを使う。作者の持つ世界に触れ、新たな知識に触れ、感情や頭を揺さぶられる。作品に触れるとは、潜水のようなものだ。作品を理解するためには、心と頭を使い、体力をすり減らしながら、深く深く潜りこまなければいけない。もちろん疲れる。だが、浮上して海面に顔を出してからは、ものすごい高揚感に満たされる。そして、世界が広がったような、世界と繋がったような、そんな感覚になれる。
しかしこれは、心身ともに疲れきった社会人には難しいのだ。"感じる"ことは、疲弊しきった心身には負担になる。
だから、感情をつかわず、頭も使わない、パズドラくらいしか出来るキャパシティが存在しないのだ。とても心に刺さったシーンだった。

そして麦は変わっていく。なりたくなかった、人生は責任である。と言う大人に。
なりたくなかった、ピクニックを読んでも何も感じないような、上司になってしまう。
繋ぎ止めるように言う「結婚しよう」が地獄。
死んだ目で、そのタイミングで、発するその言葉に辛くなった。
そこからどんどんずれていく2人の価値観とその距離の描き方が、リアル且つ繊細でとても秀逸。

ここら辺の2人の考え方の違いはまた、麦と絹のように男女それぞれ感想が分かれるのかもな、とも。

5年付き合っても、別れてしまうことはある。いくら価値観が似ていても、鏡像のような2人でも、ずっと一緒にいたとしても。
そのきっかけが、その別れるまでに積み重なった原因が丁寧にリアルに描かれているために痛いほどわかる。

また、この映画は言葉の対比、カットの対比等、対比表現が多くてとても好きだった。
印象的だったのは2人の靴。
白い、なんの特徴もない素朴な、ただのスニーカー。
並ぶ靴が、パンプスと革靴に変わる。
これは、2人の生活様式の変化だけじゃなく、変わってしまった2人の関係と、2人自身を表しているような気がした。

最後、出会ったばかりの過去の自分たちを見ているような、初々しい男女カップルを見て、2人は何を思い、何を感じ涙を流したのだろうか。あの初々しい2人に初々しかった自分たちを重ね、変わってしまった2人の感性と、戻せない時間に思いを馳せ、そこに"恋の終わりを見た"のかもしれない。

恋の美しさと恋の儚さ、恋愛のすべてをギュッと詰めた花束のような、「花束みたいな恋をした」、素晴らしい映画だった。

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