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剣鉾の伝承が途切れるのを目の当たりにしてしまった。

#先日の余談

僕が今の町に引っ越して来たのは2011年12月のこと。秋の例祭は10月だったということで、その町内のお祭りに参加したのは翌年の2012年。今から7年前のことになる。

その数年前まで「お祭り」というと屋台で買い物したりゲームしたり子供が遊びに行くところとして懐かしい光景しか連想できなかった。それが、2009年7月、御神輿(八坂神社・西御座)のご奉仕をしてから地元のお祭りに対しての見え方が変わった。年齢でいうと30代後半、内面的に大人になるというか、社会や世間に目を向け始めたタイミングもあって、御神輿のお誘いもあったので身体がすんなりと動いたんだろう。

そんな経験もあって、引っ越してからこの地域にはどんな「お祭り」があるのかと町を探索していると、とある瓦屋さんの玄関横に「担ぎ手、募集!(※学区内住民に限る)」というポスターを見つけ、早速申し込んでおいたんだ。

京都でお祭りと言えば、祇園祭の山鉾巡行が有名なんだけれど、御神輿渡御の前の露払いとして剣鉾が先導する。京都だと昔は何処のお祭りで行われていたとされ、長い竿の先に矛(ほこ)が付いていて、その竿を前後に降って、矛の根本についている鈴を竿に当てながら練り歩く。その様は御神輿渡御とはまた違って緊張感と共に、町が清められていく時間である。


鉾建て協力してください。

2012年、お祭りのある月初に町内会長の方から、「鉾建て協力してください。」と連絡があって、この地域でも鉾の慣習を守っているのだと知る。鉾町として受け継がれている大切な役割で、御神輿ばかりに気を取られていたけれど、少し動揺したのが懐かしい。

太秦では古くは剣鉾を長い竿に立てて練り歩く「剣鉾差し」が行われていたようだったけれど、今は竿を短く切って、櫓を組んで剣鉾と見返し(幕)を飾ったものを軽トラックの荷台に乗せて御神輿の前を先導していく。(ちなみに、数年前に住んでいた一乗寺という地域では剣鉾差しが行われていた。その当時の大家さんはその担い手である♪)

御神輿渡御の前日である宵宮は、5つの鉾町で担当される氏子の家の前に櫓を組んで鉾を飾って、その日中に木嶋神社の神主さんが5つの鉾町を回ってお祈りをされている。

各鉾町すべてか聞いていないけれど、時代と共に行政区の区分に伴って、鉾町の担当区と今の町内が少し異なっており、僕の町内は隣の町と役割を分担して毎年交互に担当している。数名の担当者のみで鉾を建てた後、受け持った人の家に伺って食事を受ける。そのような慣習が毎年繰り返されており、参加者の記録として芳名帳のようなものに署名を入れる。(紙に筆を使って名前を残す作業はデジタルアーカイブスじゃないのだ♪)

以来、数回鉾建てのご奉仕を行った。僕がちょうど町内の人事で会計役を担った年、その年の会長役が鉾当番となっていて、隣の町から鉾を受け取る際に「僕らの町内は住民の高齢化と住宅事情(鉾など保管するスペース)から、これ以上鉾当番を担い続けるのは難しい状況である」と話されていた、そして今年、僕らの町内は鉾建の担当からおりることになった。(当面、隣の町内が継続的に役を担われるので、取り急ぎ感謝♪)

剣鉾の役を続けるには、当事者である町人の協力がないとできない。地域の文化財であっても、大きめのトランク数個分にもなるスペースを確保するのは最近の住宅だと難しいという物理的な問題だけでなく、お祭りや行事そのものへの理解が分断されている。町内会に入るメリットを謳う前に、伝承されている慣習を町の文脈と紡いでいくことが抜け落ちている気がする。

ちなみに三条太秦繁栄会という組織が太秦を横断する三条通を跨いでつくられていた。近年はシャッター通り商店街そのものであり、多くは戸建住宅やマンションなどに建て直されている。その三条太秦繁栄会も今年で解散すると聞いた。およそ90本ほどある街灯は撤去され、京都市管理による街灯に切り替えられるという。地域の役割も変わって来ているのだ。

さて、どうしたものかな。。。

#祭 #御神輿 #鉾 #町内会 #文化 #木嶋神社






僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。