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万物の理に身を委ねる。(ル・プチメック コラム)

この記事は2019年1月1日にル・プチメック コラムに寄稿した記事の全文転載です。

気がつくと年始の節目。だからと言って大きな変化はなく、世間のお休みに合わせて僕もお休みをいただく程度なんですが…

年の節目はいろいろあって慣習として残されている節句は、その昔、江戸時代に五節句として定められた。(旧暦から新暦に変わったこともあって当時と1ヶ月ほど時期がズレているけれど)

・一月七日:人日(じんじつ)
・三月三日:上巳(じょうし)
・五月五日:端午(たんご)
・七月七日:七夕(しちせき)
・九月九日:重陽(ちょうよう)

その節句には陰陽の思想から奇数が重なる日が当てられており、奇数は縁起が良いとされている。

先月、ちょっとご縁があって「いけばな」のお稽古をする機会があった。華道って聞くと様式を学び、空間構成のセンスを磨くお稽古ごとかと思っていたのだけれど、「陰陽和合」という言葉など、万物の「理」に触れることだと知って、その道は長く遠いと思ったところ。

いろいろ調べてみると、僕の日常生活の圏内に「いけばな」の源流とされている紫雲山頂法寺『六角堂』と呼ばれるお寺もあって、いつもは通り過ぎるだけだったけれど、せっかくなのでお参りしておいた♪(冒頭写真は六角堂)

<お稽古を紐解いてみる>

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「いけばな」のお稽古は生まれて初めての経験であったが、先生のお話に多くの意味が含まれており、ほど良い緊張感と集中力が高まっていく。

お稽古が12月に行われたことから新年を迎えるのに相応しい「万年青(おもと)」と呼ばれる植物が花材として用意された。

天地人や陰陽和合という考え方に触れて、花材の数やその配置に意味を残すことだと教えてもらう。お手本自体は目の前にはなかったのだけれど、周りの様子も見つつ、教えにそって、万年青をひと葉ひと葉、剣山に留めていった。

花鋏はコツがいるようで、花材との角度か鋏の両刃の重なりが甘いのか、うまく切れないと万年青の切り口を鈍く傷つけてしまうこともあった。鈍い切り口は痛々しく花材へ必要以上の負担をかけているのがわかる。

鋏を入れると再び戻すことはできない、失敗すると花材がどんどん短くなっていくのだけれど、一期一会と思い集中し、剣山に挿す葉の高さや向きをイメージし、怯えながらも大胆に鋏を入れていく。葉の癖というか植物の特徴を踏まえることもあって、葉の表を内側に折ることで任意の場所で曲げが定めることもできた。

今回、10枚の葉と1つの実を用いたのだけれど、5枚ほど過ぎたところで、少し怯えもなくなって来たのか、ザクザクと葉を切る時に発散にも通じる「悦」も感じていたのは緊張感のある雰囲気の中で違和感として今も思い出すことができる。
(僕の日常のひとつに自宅にある庭木や雑草を定期的に刈って整えることもあって、その感覚と少し重なる…)

ひと通りお稽古が終わってから、使った花材は持って帰ることができたので、自宅でも再現を試みたのだけれど、同じような剣山や花器もないので、身近で揃えられる道具を使ってみる。ひと葉ひと葉の意味を反芻しながら、どうにかそれっぽい仕上げにはなった。そういう「見立て」というのも大切なことだとも聞いたような気がする。

花型と呼ばれる全体のフォルムからは、「書」でいうところの墨と余白の関係を立体的に起こしたようなものだと感じていた。その昔、僕は美術大学で彫刻(立体造形)を学ぶ機会もあって思うのだが、ざまざな素材を扱って造形する際に感覚を研ぎ澄ませていく行為と、花形を定める行為は一見似た感覚を用いているようだが、「いけばな」の方がより文化的な側面もあって日常感が強い。

振り返ると、たった数時間の体験ではあったが、花をいけることは、茶の席にある主・客でいうところの主の役割だろうと思う。「理」をつかみ取り、目の前に造る、そして「もてなし」という心の現れが含まれているようである。僕にはまだまだ道は遠い。

「いけばな」には流派だけでなく様々な分類もあるようで、今回、花材に自然の情景を踏まえるのは古典だと言う。それを初めてのお稽古で学ばせていただいたのはとても意味があったと思っている。先生の教え、考え方は深くしっかりと筋が通っているのだ。(感謝!)

この記事は2019年1月1日にル・プチメック コラムに寄稿した記事の全文転載です。

そして、この記事の編集後記はこちら。

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