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女性支援で思うことと「社会的無意識」

こんにちは。今日は私が携わる女性支援についてのお話しです。

女性支援と一口にいっても幅が広い。赤ちゃんからおばあちゃんまで、そして男性の性別でも心が女性の方や、女性の性別でも心は男性の方も含めます。そこで、たくさんの方の人生に触れ、日本という国で女性として生きることについて改めて考えさせられました。

そして、生きづらさを抱えるその根底になにがあるんだろうと考えたとき、みなが知らず知らずのうちに形成している「社会的無意識」があるのではないかなと思います。

例えば「母親が子どもを見る」「小さいうちは母親が育てる」という考えはあまりに当たり前に無意識として浸透しすぎているがゆえに、「何で子どもがこんなに可愛いのに、私はこんなに生き苦しいんだろう」「こんなに子どもがなついてくるのに、私はきちんと対応できていない」「母親失格だ」と、母親はまず自分を責めるわけです。そして、周囲も、時に支援者も母親を責める。

例え話として私の話をしたいと思います。
 私は子どもが1歳からフルタイムで働いてきたので、あらゆる保育サービスや制度で使えるものは全て使いました。その中のひとつに「ファミリーサポート(通称ファミサポ)」というものがありました。これは地域にすむベテランママやパパ、シルバー世代の方が、有償ボランティアで、同じ地域に住む小さい子を持つママパパのサポーターとして、保育園の送迎を代行したり、一時保育をしたりしてくれる公的サービスです。働く親にとってはたいへんありがたい制度で、私も恩恵に預かっていました。
 ある日、いつも子どものお迎えをお願いしていた方から、長い長い手紙をもらいました。その最後に、

「○○ちゃんはとても可愛い子です。もっと愛してあげてください。」

と書かれていました。
私はものすごくショックで、しばらく涙がとまりませんでした。
シングルマザーだった私は、ずっと子どもをしっかり育てることだけを考えて毎日働き、休みにはお出かけして身体を動かすように気を付けたり、食事に気をつけて添加物のない食品を調理したり、「ひとり親はやっぱりね、などと後ろ指さされないように」と必死に生活していたからです。
すべては子どもへの愛情からでした。心では
「それでも、まだ愛情が足りないというの!?」と叫んでいました。

うちの子は、半分外国の血が入っています。かなりそちらのDNAが強く、人一倍スキンシップを求める子でした。そのファミサポ支援者が「愛情不足」と判断したのは、日本人からしたら異様なスキンシップと、その方の手を舐めたことだったようです。勉強熱心な方だったので、おそらく心理学なども学ばれていたのでしょう。

手を舐める→母親への愛着障害

とでも解釈されたのでしょうか。

私は他にも同じ国のルーツのある子どもたちとたくさん接してきましたが、みんなスキンシップ大好き、ふざけて舐めたりなんてことも珍しくありませんでした。

この出来事により、どんなにがんばっていても、ほんのささいなことで、
ひとり親=愛情不足という誤解は生じることがあり、それがひとり親を追い詰めることを身をもって体験しました。そして、そういった支援者はえてして「善意の支援者」なのです。みな「善意」からアドバイスしたりするわけです。だからこそ、正論(という社会的無意識)が時として、人を苦しめることになることもあるわけです。

そして、これはひとり親に限ったことではありません。
家族の世話は家族がするもの、という無意識化も女性だけでなく男性の介護離職問題や高齢親子による無理心中など社会的な問題につながります。地域によっては、母、妻、嫁が担う重責がいまだに大きく、ヘルプを出したくても周囲の目があり出せないなどの声も少なくありません。

高校出てよい大学に入りよい就職をする=いい人生、この無意識化も、学歴コンプレックスや一度レールを外れたら終わり、最初の会社がダメだったからもう終わり、受験が失敗したからもう終わり、などの感覚を生み出してしまいます。

こういった昔の常識が社会の無意識化していることはとても多く、無意識ゆえにみんなが自然と「当たり前なんだ」と考えてしまい、それが息苦しさの原因になっているということが実はたくさんあるなあと思います。

私が出会ってきた、苦しい思いをしている女性たちは、私よりもずっと真面目で、そして責任感が強く、だからこそ「すべて自分が悪い」「すべて自分で背負わなければ」「他人に迷惑をかけてはいけない」という思いがとても強く、ぎりぎりまで張りつめて生活をしています。そして、あるときぷちっと糸が切れてしまう。

そんな彼女たちを見ていて、いつも歯がゆくなります。「もっと助けって言っていいんだよ。」「ひとりで抱えないて」「迷惑をかけない人なんて世の中にいないよ」と伝えてもきましたし、これからも言いたいと思っています。

そして、この無意識にどう対応するのか。いつも講座でお伝えしているのが「“いいかげん”は良い加減」だということです。仕事にしても、育児にしても、介護にしても、勉強にしても“余白”を残すことは、大切なことだと思います。ほどよい加減で余白を残す。そうすることで、人の意見を聞き入れられたり、自分を振り返る余裕を持てたりする。違う視点を持つ柔軟性は、自分を助けてくれる鍵になるということです。この社会的無意識(昔の常識)に「あれ?なんか自分は息苦しい。なんかおかしい?ちょっと待てよ」と思考できる可能性を持たせるということです。

真面目であることは日本人の美徳であるのかもしれません。だからこそ、コロナの感染が諸外国に比べて格段に低いことにもつながっていると思います。でも、その真面目さゆえに苦しかったり、辛かったりしているとき、それは少し考えなおしてもいいのかもしれません。

最後までお読みくださってありがとうございました。気に入っていただけたら反応いただけるとうれしいです。

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