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チャーミングなチャームとグレイスフルなグレイスーー人間の由来と二つの美しさとジェンダーロールについて

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 この記事は、国際基督教大学内の一部の集まりでの口頭発表の原稿に若干の修正を加えたものである。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」

(エレミヤ1:4-5)

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」

(ヨハネによる福音書 1:14)


【目次】



■プロテスタント本来の行為義認批判は存在肯定ではなく存在否定を伴う

 4,5年ほど前の事ですが、聖書を読む私的な集まりで、ある一人の参加者が目に涙を浮かべていた事が、私の記憶に残っています。泣き出す程の感動を彼に与えた、だいぶ社会的地位の高い主催者のかたがしていた話の内容を私はよく覚えていないのですが、泣き出したほうの応答は多少覚えています。期待していた学業成績を取り損ねた自分がにもかかわらず受け入れられている、というメッセージに感銘を受けたーーという事だったようです。

 私が感話担当する今回の青年の夕べの賛美歌の打ち合わせをするためにICUに出向いたとき、『Being&Doing』と題された張り紙が目に止まりました。C-weekという、恐らくはキリスト教に関係ある催しのテーマなのだそうです。

 この題は、私にある種の感慨を覚えさせます。辛うじて私にキリスト教への関心を保たせてくれている数少ない神学者の一人であるディートリッヒ・ボンヘッファーの講師就任論文が、まさに『行為と存在』だからです。その中で、ボンヘッファーはルターの『スコラ神学に対する論駁』を引用しながら述べます。

「それゆえ、成ること、存在すること、働くことは、順次相次ぐのである」(ルター)。人間は苦悩の場所で、神によりたのむのである。ルターはここで新しい出生について語っている。実存は受けること (pati) として規定される。すなわち、実存は「本来的には」 出会われた実存としてのみ語られるのである。キリストに出会わず、また影響されずに作られた実存概念は(ハイデッガーの「本来的な」実存をも含めて)「本来的ではない」のである。

 ルターの同じ箇所の引用は、ルター研究者金子晴勇の論文『ルターとオッカム主義の伝統』の中でもう少し詳しく触れられています。

ルターによると行為の善性は人格の存在から導かれ、人格は神に対する信仰から形成される。そこでまず人格の形成という「生成」が来て「存在」を確立し、そこから「行為」が生じる。(略)「これまでパウロは新しい人間の生成を教え、新しい存在を与える新しい誕生を語ってきた。いまや彼は実に新しい誕生から生じる行為を教えているが、いまだ新しい人間に成っていない者がこれを先取りしても、その行為は無益である。なぜなら行為よりも存在が先行し、存在よりも受動が先行しているからである。それゆえ、生成・存在・行為と続くのである」。

 (略)ルターにとり信仰は神の恩恵を受容する働きであって「受苦」 (passio) と 「受動的経験」 (Erleiden) をとおして働く御霊の創造的形成作用による新生をもたらすものである。だから「喜ばしい受苦」 (ein frohlich leyde) とも呼ばれ、この「源泉」 (grund) から行為が生まれる 。すなわち、「新しい誕生により罪から義へ、生成により非存在から存在にいたるように、移り行くのである。このように造られてこそ正しく行為する」 のである。

 C-weekのパンフレットに目を通すと、「どうかどうか、思い出して。何もできなくてもいい。そこにいるだけでいい。人は、ただ生きているだけで、価値のある存在ーBeingーであることを」と記されています。しかし、ルターの引用が含む意味は「お前がお前である限り、何をやってもダメだ。なぜならば、お前の存在自体がダメだからだ」という事ですから、それは少なくともプロテスタンティズムの心臓たるルターの信仰義認論における行為義認批判とは内容がアベコベですし、観点も異なります。ルターが立脚しているのは行為以前の存在ではなく、存在以前の生成です。三位一体論における父からの御子の永遠の出生、処女懐胎と受肉、原罪の遺伝的継承、霊的な新たな出生、死者の復活ーーと、どうやらキリスト教はルターに限らず「生まれる」という事に並々ならぬ執着を示す宗教らしい、ということは後で戻って来ますから覚えておいてください。


国際基督教大学C-week2024パンフレットより

 C-weekの特別キリスト教概論では、ルターに言及した教員も居たようです。内容は存じ上げませんが、私がアウグスブルク信仰告白を学ぶのに使っていた、今はもうないルーテルプラスというサイトにあった「悪魔は神の言葉である聖書すら歪めてきたのだから、私の言葉をなら尚更だろう」と、後代における自説の歪曲を予見したルターの言葉を思い出します。

 私のキリスト教への関心を最初に繋ぎ止める事になったクリスチャンは、当時のデンマークキリスト教界の欺瞞の告発を緩める事なく世を去ったキルケゴールでした。「人々はキリスト者であることを通り抜けてしまって、キリスト教的なものにお添えものをつけて口あたりをよくした美的で知的な異教の方へ逆戻りをやっている」「キリスト教の仮面をかぶって、人は異教の中に生きている」「人々の考えるイエス=キリストは、託児所のお人好しの保父と変わらない」「若い娘達は、神を自分のお願いを何でも叶えてくれる気前の良い親戚の叔父として考えている」と、辛辣な評を多く残しています。

 そのキルケゴールをもっとよく読むように、とカール・バルトに度々勧めていたエーミル・ブルンナーを、戦後日本の再出発を担うべき使命感を持って招聘したこの大学で、また、ブルンナーと同じようにキルケゴールに私淑し、アングロサクソン的なリバタリアニズムと功利主義を掲げる福沢諭吉に猛反発し、デンマークをモデルにした国家形成を理想に掲げた内村鑑三記念文庫を図書館に有するその大学で、キルケゴールやルターのそもそもの言葉を思い出す機会を提供しなければならないのが信者ですらない私である事に、その人達が最も尊ぶべきものすら、ちっぽけな慰撫を得ることと引き換えに気安く踏みにじって平気で居られる、一つの世界の基礎からの崩壊ぶりに改めて圧倒され、自分の拠る辺なさを思い知らされざるを得ません。もっとも、それは後代における自分たちへの歪曲を完全に予告し覚悟をしていたルターやキルケゴールの問題ではなく私の問題かもしれませんが、だからといって彼らをそう扱う側がそのままであって良いという事にはならないでしょう。

◼️異教文化への有効な対決姿勢の欠落


 今はリンクが切れていますが、ブルンナーの『出会いとしての真理』の新訳が森本あんり先生と五郎丸仁美先生の共訳で出た時にICUのサイトに掲載されていた、ブルンナーの直弟子でもあった神学者の確か大木英夫か高橋義文による書評を覚えています。「出会いとしての真理こそは、単純かつ最も大切なキリスト教の精髄なのであり、『出会い』という出来事の有する実存的な意味を見失っているから、『出会い系サイト』なる堕落したものが流行るのだ」というような、いかにも堅物の神学者らしい苦言を日本社会に向けて呈する内容でした。出会い系サイトとは今でいうマッチングアプリですが、当時はネット文化がそれほど浸透していなかったこともあり、今よりかなりいかがわしいものだったのです。

 私はそれを読んだ時、「今さら?」と思ったものです。神学的、宗教的な重要概念が文化に、特に恋愛文化に換骨奪胎されて不正利用されるがままになる無様極まる敗北は、本邦ではカップル向けデートイベント化したクリスマスで大々的に一度喫しています。

 そのような、キリスト教のいわば「コスプレ」化は欧米には見られない日本特有のものという訳でもありません。早くも19世紀初頭にはゲーテのような古典的な文豪が、中年期版の『若きウェルテルの悩み』とでも言うべき『親和力』において、叔父との道ならぬ恋の果てに衰弱死する美しいヒロインの亡骸に殉教した聖女じみた装いを施し、一本気なクリスチャンであった文人仲間で牧師のヤコービから「あなたは肉欲を聖化する積りなのか?」と怒りと不興を買っています。

 日本に足りないのは、寧ろキリスト教を換骨奪胎していく異教文化に対する有効な対抗姿勢です。実はキルケゴールの仕事のほぼ半分も文化抗争に費やされているのであり、彼の重要さもその点で示した冴えにあるーーと言っても過言ではありません。ヤコービや大木英夫のように反感を表明して済ますのは、愚直というよりは稚拙です。

 アメリカの新カルヴァン主義の旗手として活躍した、最近亡くなったティモシー・ケラー牧師の発言を引用しましょう。因みに、訳者の廣橋麻子さんはICUの出身者で、のあさんのお知り合いだそうです。

 聖書には勿論、偶像礼拝から立ち返る事は、偶像が生み出す文化をも拒否する事が含まれています。神はイスラエルに他国の神々を拒否するだけでなく、「彼らの風習に倣ってはならない」とも言います。文化批評なしに偶像に挑む方法は他になく、又偶像を見極め、挑む事無しに文化批評は出来ないのです。

 現代社会のクリスチャンが皆と同じ様に物質主義的だと見る読者もいるかもしれません。それは、もしかしたら、私達の福音の説教がパウロのものとは違い、現代文化の偽りの神々を十分に暴き出していないからではないでしょうか。

 順応するのでもなく、斥けて内部人向けの宗教芸術に囲まれて身を守るのでもない。必要なのは、対象になる世界を内側から把握でき、かつそれをキリスト教的観点から吟味できる批評なのです。

■二つの美しさ、チャームとグレイス


 そのような試みとして、今日はこれから「美」の話をするつもりでいます。カトリックや正教の聖堂と見比べれば誰でも容易に感じ取る事ですが、一般的に言って、プロテスタンティズムは宗教の内側に特有の美を位置づける事が苦手です。苦手というよりは、ある種禁欲的な姿勢でもって自覚的に締め出している、という方が近いのでしょう。絵画・彫刻・建築などの視覚芸術の代わりに、プロテスタントが重視してきたのは音楽ですね?目に見えないものとしてのスピリチュアリティを重視する神学的特徴が、この傾向を齎しているのだと思われます。

 この傾向は、近世から近現代にかけての美学史上の関心の変化に、ある程度の相関を見いだせると思います。簡単に言えば、自然世界には見いだせない霊的(精神的)存在としての人間特有の美しさとは何か?という問いの答えが、片方の自然美の理解の変化も伴いながら、変わってくるのです。

 先に、近世ではなく私達にとって馴染が深い近代美学の方を押さえておきましょう。私に言わせれば、現代美学もこの近代美学の中にあります。

 近代美学上重視される最大の美学的対立項は「美と崇高」です。英国の保守的思想家バークがこの2つを対比的に扱い、カントが洗練させ、人間にとっての自然美に対する崇高美の優位を決定付けます。簡単に言えば、感性的に把握できて快を与える自然の美しさに対して、感性的な快楽を越えた、理性や精神といった人間の内面的な能力の尊さに対応する美しさが崇高サブライムです。バークの頃はそうではなかったのですが、カントは崇高をそう理解し直します。ここには、崇高は男性的なものにして優位であり、美は女性的なものにして劣位である、というジェンダーロールも忍び込んでいます。そして、バーク、シラー、カント全員がそうなのですが、美(自然美)を絵画の様な視覚芸術に結びつける一方で、崇高を、形象、想像力、描出といった視覚的な把握能力を越えたものとして提示し、言語芸術である詩文芸を適したジャンルとします。カント自身は音楽を殆ど評価していなかったのですが、見える世界の美しさを超えるものとしての崇高論はロマン主義的音楽家達に馴染みが良く、ドイツ文化における音楽の地位確立を後押しします。ショーペンハウアーが、表象を介して意志を表すのではなく、意志自体を直接的に表現する芸術としての音楽を評価したこと、ショーペンハウアーに影響を受けたワーグナーが、ベートーベンと自分の音楽を美ではなく崇高なものとして提示したことはよく知られていますし、ニーチェのアポロンとディオニュソスの二大原理にも引き継がれていきます。

 本当に尊いものとしての人間の精神性は目には見えず、それを表現するのに適したジャンルは音楽という事になる訳です。ところで、自然美と崇高美の間には、実は両者の中間的な美と言って良い様な美的範疇があります。それが「優美グレイス」です。『優美と品位について』という論文でシラーが扱っているのですが、優美も崇高も、感覚世界の美に対して精神性の付与された人間特有の美しさです。しかし、崇高が感覚世界に対して克服的で超然とした美しさなのだとしたら、優美は感覚世界に対して調和的な美しさなのだと言います。

 実は優美は、ルネサンス時代には、丁度近代に崇高が占める様な自然美とは異なる人間特有の美の典型であったのです。比較的古典主義的なシラーはまだ、優美と崇高両方に人間性を託していますが、ロマン主義詩人のハインリヒ・フォン・クライストは、『マリオネット演劇について』という今でも舞踏家の間では読まれる対話的短編小説の中で、人間において優美は成り立たない、と考えているのが窺い知れます。クライストにあっては、自意識や精神といった人間特有の能力の目覚めは、感覚や身体といった物質的、自然的な世界に対して調和を乱すものとしてしか働かないからです。そういう訳で、優美は精神を宿す美しさの地位を崇高に奪われます。そうなると、もう崇高美と自然美しか残りません。

 しかし、近世には成り立っていた優美が、近代には成り立たなくなったのはなぜでしょうか?世界が脱キリスト教化されたからだーーというのが私の単純な答えです。人間は元より「受肉した霊」である訳ですが、「罪」はこの、霊(精神)と肉体の間に癒やし難い分裂と相克を齎します。堕落前のアダムと妻を除けば、この分裂の影響を被っていない例外的人間がイエス=キリスト(とその母マリア)であり、彼の犠牲を通じて、私達の内的な分裂も癒やされます。つまり私達は、ルネサンスと宗教改革の近世から啓蒙主義とロマン主義の近代へと、ペンテコステ後のペテロやパウロやヨハネの立場から堕罪と楽園追放直後のアダムとエヴァの立場へと、聖書記述的には逆戻りをしてしまっているのです。

 今日、私は、音楽に不可視の精神の崇高さを託すプロテスタンティズム的な禁欲主義に対して、キリスト教に相応しい美的範疇としての「優美」の地位の再興を唱えるものでありますが、本当に厄介なのは実は崇高美ではなく崇高美とセットで現れる自然美であり、また自然美を低劣視しながら無力化させる事のできない崇高美の無能さ・不様さなのです。この辺りで、大木英夫が示した出会い系サイトに対するピューリタン的反感と、話が繋がって来る訳です。

 精神と肉体(自然)の調和が乱れた上で精神が肉体を克服する人間の尊さが崇高ならば、逆もある。罪の影響で歪められたこの世界では、中立的な自然というものはありません。言い換えれば、単なる外的な自然美というものはなく、崇高と対になるべきは、精神と肉体がせめぎあった上で、いわば精神を肉体の中に埋没させてしまっているような美しさである筈です。カント達は余り真剣に扱っていないのですが、ゲーテは、自然美の有する、精神的存在としての人間の足場を崩していく禍々しい力に気づいていました。先に紹介した『親和力』では、メインヒロインとなる植物的な清楚な美少女の周りに、自然現象が運命の網の目のように絡みつきその呪術的な力を振るい、登場人物の田舎貴族達の生活を侵食していきます。

 『出会いとしての真理』の共訳者である五郎丸仁美さんがドイツの美学者メニングハウスの『美の約束』と『ダーヴィン以降の美学』を扱った論文が、ICUのリポジトリで読めます。バーク以降の近代美学は、ショーペンハウアーに至るまで、美への嗜好を動物的な本能から切り離して考えて来たのですが、これは単純に観察不足に基づく謬見です。人間は美しさで伴侶形成のえり好みをするが、動物は繁殖相手を美的にえり好みせず誰彼構わず交尾をしているという理由で、バークは美を、人間が動物と共有する繁殖の本能の求めるものではない、と結論付けました。しかし、実際は、動物はオスがメスを美的にえり好みしないだけであって、メスがオスを美的に選り好むのであり、美の威力は寧ろ人間の世界で以上に猛威を振るっています。バークは動物界の観察においても、美的な選り好みは男性が女性に向けるものだという人間的なジェンダーロールの偏見に囚われていたので見誤ったのです。これに気づくにはダーウィンの登場を待たなければならず、そのダーウィンも、自然淘汰とは別基準が支配する性淘汰説には因習に囚われた人々から繰り返し道徳的反発を受けて学説の浸透を妨げられているのですから、バークの時代では尚更仕方がないのかもしれません。どうして、人間にあっては動物一般のジェンダーロールが男女で入れ替わっているのか。それは面白いテーマなのですが、話が逸れすぎるので一旦触れずにおきます。確認しておきたいのは、美はやはり繁殖行動と結びついている、という事です。美は異性を発情させます。これは日常的・実感的には誰でも知っている事ですが、見てきたように美学上ではあろうことか、大分長い間そうではない事になっていたのです。五郎丸さんがダーウィン美学を扱うのは、「美は生殖を刺激する」と、美的経験を「関心なき適意」とするカント〜ショーペンハウアーまでの美学上の謬見を嘲笑えた恐れ知らずのニーチェの研究者であるからかもしれません。

 美、性、エロティック(恋愛)なもの、類感と接触が合理性を掻い潜る呪術・魔術的思考…、これら一連が一つの世界観をなしていることもまた、私にとっては自明であるように思えます。ゲーテには捉える事ができたこれらの一連を、私は「チャーム」と呼ぶ事を提唱します。男性的な崇高美の影で、低劣かつ女性的とされて来た自然美の正体は「チャーム」なのです。チャームという言葉は元々は古いフランス語ですが、ギリシャ語のゴエーティア、漢字の「魅」に相当し、全てセンシャルなアトラクティブネスとしての美しさと、呪術的な宗教性を跨ぐ概念です。魅力の魅は、魑魅魍魎の魅ですね?美と宗教を重なりで捉える言語感覚は、文化圏を越えてある程度普遍的と見なして良いのでしょう。

 私はこの集まりで何度か、異教的な幸福概念であるユーダイモニアとキリスト教的な幸福概念であるマカリオスの、内容の違いに触れています。という事は、この2つの幸福観は、どちらかを取ればどちらかが取れなくなる、という事です。それと同じ様に、自然美をチャームと言い換える事で、グレイスとの相容れなさがわかりやすくなります。シモーヌ・ヴェイユは、近代人は優美な態度で感謝を述べる事ができなくなってしまった、と指摘しています。これはグレイスが、優美と感謝を跨ぐ概念である事に促された言葉遊びですが、グレイスもまた、チャームとは内容が異質ながら、ある種の美しさとある種の宗教性を跨ぐ概念である点では、チャームと同じなのです。

 グレイスならば、チャームが占める場所をいわば上書き保存する事で、チャームの力を無力化させられます。しかし、目に見えないスピリチュアリティの尊さを音楽に託して表現するサブライムでは、棲み分けによって、宗教性においても美においても性関係のあり方においても、チャームの力を斥けた先で蔓延るに任せてしまいます。グレイスとチャームは勝負が出来るが、チャームとサブライムは勝負が出来ないのです。日本の真面目なプロテスタンティズムが、日本文化に対してこれまで取って来た距離は、そうしたものに過ぎなかったと思います。一方で、若者向けの教会ではしばしば、俗情塗れの娯楽文化の取り入れがある種の開放的で開明的な姿勢の装いのもとでなされることがありますが、惨敗ぶりに気づかないほど感受性が鈍麻しきっているか、主人以外の相手に尻尾をふるような阿りや諂いを愛や謙りと摩り替えて平気なほど不誠実な自己欺瞞に陥っているに過ぎません。

 プロテスタンティズムの教派神学的特徴が、その「恩寵のみソラ・グラティア」の強調においてあるのだとしたら、他ならぬプロテスタンティズムこそが、審美規範においても、霊的な崇高さではなく、霊肉の全一性としての優美グレイスへの感受性を陶冶していくべきです。

■由来へ遡行する扉としての美しさとジェンダーロール


 この辺りで、最初に触れていた存在に先行する生成という話題に戻りましょう。原罪の遺伝的継承という西方原罪論の立役者たるアウグスティヌスは、「私達は尿と糞便の間から生まれてくる」と、解剖学的事実の指摘に陰鬱な情感を乗せた出生観を述べています。チャーミングな美が繁殖行動を刺激する点は動物と同じでも、動物とは逆に、なぜ人間のチャーミングな美しさは女性のジェンダーロールなのか。理由の説明ではありませんが、人間には動物にはない、離反した由来へ遡行する欲望があり、美はそこに至るいわば扉として使われているようです。男の子は、父親により母親から引き離され、孤独や寂しさを抱えながら成長し、恋人になる女性に母性的な安らぎや癒やしを求めます。ここに、性関係を道徳で裁くことの難しさがあります。道徳は人間の将来への進行の仕方を方向づける基準であり、由来へと遡行する性欲は向きが逆だからです。

 キルケゴールは、失われた原始的な無垢を取り戻す運動を「反復(受け取り直し)」という概念で呼び、クリスチャンにあってはイエス・キリストがそれを齎すとしました。「受け取る事を通じた新たな出生」という点では、ルターやボンヘッファーと同じですね?新たな出生があるなら古い出生もある訳で、それはアウグスティヌスに言われるまでもなく、赤子としての母胎からの出生です。それを人間の出発点とした場合、精神が目覚め、母子癒着から離れた人間は、チャーミングな女性美との接触を通じて、母性的な胎内回帰の欲望を満たそうとします。しかし、本当の人間の出発点は、母胎から出生する幼子でありません。岩本善治や賀川豊彦といった、自由恋愛及び母性賛美を推進した思想家達は、反動も含めた欧米近現代思想とキリスト教を取り違えたこの国のほとんど全てのプロテスタント運動家のご多分に漏れず、間違っていたのです。人間は、一摘まみの塵芥から捏ね上げられ、息吹を吹き込まれた存在として、つまりは元より受肉した霊として、またその肋骨から取られた「相応しい助け手」として出発しています。女性が男性の肋骨から取られた事を男女平等の神学的根拠とする考えはペトルス=ロンバルドゥスに既に見られ、当時の宮廷恋愛の女性崇拝を戒める必要性もあっての言及だったようですが、キリスト教では古式ゆかしいものです。キルケゴールは、基本的に男女のジェンダーロールを前提しながら記述されていく『死に至る病』の中で、神の前では相違は解消されるのだと主張しています。そしてまた、彼が生涯を捧げてきたのは、「永遠のもの」と「人間平等の思想」なのだ、と総括しています。

 この、神に創造された似姿としての男女共にグレイスフルな水平的で同質な等しさは、堕罪によって失われ、男性はサブライム、女性はチャーミングな、異質かつ垂直的なジェンダーロールが始まります。私達は、人間の本当の由来である神を忘れ、マテリアルな自然における私達の由来たる母性の偶像崇拝に傾き、女性のチャーミングな美しさとの接触を、胎内回帰的欲望成就に通じる扉として求めます。しかし、堕罪以降の世界でただ一人神から離反せず、彼自身が神性を有する、グレイスフルな人間たるイエス・キリストは、経由地に過ぎない母胎ではない本当の由来へと、その犠牲を通じて私達を連れ戻してくれます。その暁には、サブライムでもチャームでもない、グレイスフルな美しさを男女が共に取り戻す事ができるでしょう。それがキリスト教的な男女平等なのであり、今日名乗りを上げている、性差別の解消を掲げる、この大学にも蔓延している様々な世俗的かつ異教的思想とは全く異なるものなのだと私は思います。

■報いとしてのディスグレイスと犠牲としてのディスグレイス


 キリスト教的に見れば、崇高美サブライムも魅力チャームも、「罪の報いとしての死」という、私達の根本的なディスグレイスフルネス(恵まれなさ=恥辱)の上に築き上げられる虚飾や幻惑に過ぎません。イエス・キリストの十字架は、罪無き彼にのみに相応しい筈のグレイスフルネスを、相応しからぬ私達に再び贈り直すための、報いとしてではなく犠牲として被るディスグレイスフルネスの極致です。古代教父のオリゲネスが相手取ったキリスト教の敵対者ケルソスは「最も不名誉な仕方で捉えられ」「恥ずべきやり方で処刑された」十字架刑のディスグレイスフルネスを見逃す事はありませんでした。十字架の死は「卑しい犠牲」であり、「尊い犠牲」ではありません。カントは崇高美サブライムの担い手として軍人を挙げているのですが、崇高美サブライムは、私利私欲の満足という意味での幸福を断念しより高次の理念たる正義や善に殉じる所の人間精神の高邁さに対応し、私達の内に尊敬の念を引き起こします。しかし十字架の上での犠牲死は、私利私欲の満足としての幸福を断念するのは勿論の事、尊敬の対極たる恥辱と不名誉をも被るのであり、世俗的に受け入れられる英雄的な自己犠牲とは性質が異なります。私達は、キリストに倣う愛の業の実践に身を投じる時、果たしてその献身が不名誉や恥辱を伴うものか、それも、報いとしてではなく犠牲としての恥辱を伴うものであるかを、常に省みるべきでしょう。

(参考文献)

『聖書』各訳
『キルケゴール著作集』
『キルケゴールの講話・遺稿集』
『キェルケゴールの日記』
『ボンヘッファー選集』
ティモシー・ケラー『偽りの神々』
シモーヌ・ヴェイユ『神を待ち望む』
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』
ブルンナー『信仰・希望・愛』
バーク『崇高と美の起源』
クライスト『人形芝居について』
カント『美と崇高の感情性に関する考察』
カント『判断力批判』
シラー『優美と品位について』
ベンヤミン『ベンヤミンコレクション1』
ゲーテ『親和力』
教皇ベネディクト十六世『207回目の一般謁見演説 12世紀の神学者ペトルス・ロンバルドゥス』https://www.cbcj.catholic.jp/2009/12/30/7194/
五郎丸仁美『性淘汰説をダーウィン美学として読む』https://cir.nii.ac.jp/crid/1390858752006064384金子晴勇『ルターとオッカム主義の伝統』https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/273593

亀井俊介訳『内村鑑三英文論説翻訳編 上』
https://blog.goo.ne.jp/514303/e/7ab50c3dbd4676e018641f333a356616
近藤勝彦『キリスト教教義学上・下』
デビット・ノッター『純潔の近代』
宮野真生子『なぜ私たちは恋をして生きるのか』
カミール・パーリア『性のペルソナ上・下』

〈終〉

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