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本当の若さということに、短歌レッスン中に気づかされる。

どんなことであっても、表現してみて、批評されてみることで、初めて発見する自分自身、ということがある。そうして頭で解釈しただけだったものが、それによって、ようやくはっきり腑に落ちてくる、ということがある。
人はそのように、人との関係性のうちに初めて自分自身を知っていく。この「縁起」によって、人は初めて自分自身を見ることができる。

春から月イチのペースで短歌レッスンを受け始めた。
今月も頭に汗して何とか二首、短歌らしきものを捻り出した。

もっとダメ出しされるかと思いきや、切れ字の選び方や止め方などの工夫について指摘はあったものの、先生から、

「若さがある」

と少しばかり褒められた。

幼少時より大人びてる、若者っぽくない、と何かにつけて言われてきたこの私の作り出したものが、「若さがある」とは。
新鮮な驚きであった。

私は子ども時分に子どもらしさがなかった、というのが、大人になってからもコンプレックスであったが、もしかして、全て自分の単なる思い込みであったかもしれぬ。先生のポジティブな指摘を受けて、そう思い始めた。
或いは、コンプレックスだと思い浸っているそのことが、その人独特の視点を形成する起爆剤となっているのかもしれぬ。

そうやって考えてみているうちに、
この「若さ」というものは、
表現の中に表れるこの「若さ」というものは、
年齢で計算できるような時系列的なものではなく、

誰もが、死ぬ瞬間まで持ち合わせて在るものなのだ。と、ふと感得したのだった。
感得してみると、言い知れぬ安堵というか感謝というようなものが、全身に拡がっていくような心持ちになるのだった。
人は人との関係性のうちに初めて自分自身を知っていく。「縁起」によって、人は初めて自分自身を見ることができる。お釈迦さん、ゴータマ・ブッダの教えがほんの少しではあるが、身に染みていった。


先生(そして多くの先達や覚者)の仰る「若さがある」ということは、

自らが「いま」という永遠に生まれ続けて古びぬ「とき」とともに在る、ということなのだ。

「いま」ということの、瞬間瞬間の連続性の流れの中に、自らの血潮を、合流させ続けていることなのだ。
一瞬でも、そう在ることができた時、私たちは本当の意味で、生きている。

その瞬間、瑞々しい生命が世界に迸(ほとばし)る。


そうであるならば、常に世界は新しく、若い。
そうであるならば、世を儚むとか、人生を悲嘆するとか、そんなことがどうしてできるだろうか、いま、という生命と共に、その身が流れているときに。

生命の瑞々しい迸りは、いつ、どこで、誰から溢れたものであろうと、常に新しく若いということに於いて全く等しく同一のものであって、私たち皆にすでに在る。
それ故、私たちの中で溢れたがっている瑞々しい生命は、同じものであるそれに、気づき、発見し、引きつけあう。

人は人との関係性のうちに初めて自分自身を知っていく。「縁起」によって、人は初めて自分自身を見ることができる。
作品も同じではないだろうか。

西洋美術の技法としてのリファレンスというものも、西洋美術という名の権威のもとで教養化、テクニカル化されてはいるものの、本来的な動機、隠された初動は、この、生命の迸りを紡ぎ続けようとする抗いがたい態度と所作なのではないだろうか。私はそう考えずにはいられない。

どのように向き合い、味わったらいいのだろうか。

業界の権威かどうか、トレンドかどうか、王道か対極かニッチか。そのような気の抜けない分析や思考から、せめてひととき離れ、

現代美術という、人類知の最突端のひとつの場所に立って、ゴータマ・ブッダが観たものと全く同じものを観、触れることへのチャレンジを、壮大な生命の触れ合いへのチャレンジをしている。そう感じでみてはどうだろうか。

目の前のあらゆる作品の中で、ブッダが、仏性が、生命が溢れようとしている。
目の前の誰もが、その中でブッダ、仏性、生命を溢れさせようとしている。

あなたの中に在るブッダ、仏性、生命は、それを必ず発見する。
発見し、いつでもひとつになりたがっている。

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