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台所に10歳の母がいました。 (人生の曖昧な秩序について)

台所で肉を焼いていました。
フライパンでジュージュー肉を焼いていると、母が出先から帰ってきました。

手が離せずにフライパンを向いたままの私の背後から、母はそのフライパンをのぞき込んで小さく「わ~」と声をあげました。

その様子がまるで、
小学生がお腹を空かせて帰ってきて、台所のお母さんのお料理を幸せそうに眺めている時の様だったのです。ほんの一瞬でしたが、そんな、まるで幼い仕草を母がしたので、私は思わず苦笑してしまいました。

少し経ってから、私は不思議な感覚に浸りました。

台所で料理をする私の背中を見て、
母は自分の子ども時代の、母親との楽しい一場面が無意識にオーバーラップして、すっかり童心に還って声をあげた、、、それだけの事ではあるのですが、

母はあの瞬間、本当に子どもだったのかもしれないと、私は思いはじめました。子どもじみた、とかいう例えの意味ではなく、本当に10歳くらいの子どもだった。では私は誰か。母の母親?そうではないのです。あの瞬間、私は誰でもありませんでした。ただのシルエットだけになって、10歳の女の子の現実の中にただ存在していた。
そして次の瞬間、突然10歳の現実を生きてしまった事にハッとなって、再び慣れ親しんだ現在までの現実に戻った、のではないか。

私が今日まで、一日一日を過ごしてきたスケール感というのは、思ったよりも曖昧なものなのかもしれません。
理路整然と連続的に展開してきたかに思える、この人生のストーリーは、本当は時系列も何も無く、一つひとつの情報としてただフラットに浮かんでいるだけなのかもしれません。

それらの情報を好きに繋ぎ合わせて、どうにか自分で理解できるように秩序だてている、、、

人生とは何かと言えば、
各々が自分勝手に、そういう作業をしているだけ、なのかもしれません。

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