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豆柴に愛されて、話はオールビー「動物園物語」へと

よく通る道に、オスの豆柴を飼っているお宅があって、柴犬は飼い主以外にはあまりなつかないときいていたのに、いつも尻尾を振って喜んでくれるので可愛くて可愛くて、通る度に撫でていました。

そんな日々が続いたある時、いつものように近づいて行くと、何やら丸くなってうずくまっているではありませんか。

おや?何をしているんだろう?

と思いましたが、私に気づくと飛び起きて、いつものように尻尾を振り、そして私の顔をペロペロと舐めるので、ヨシヨシそうかそんなに私が好きか、などと冗談を語りかけひと通り遊び終えて、じゃあねーと立ち去りました。が、なぜだか不意に、振り返ってみる気になって見てみると、彼は、来た時と全く同じ体勢でうずくまっているのです…。

おや、いったい何をしているんだろう?

また近づいて行って、のぞきこんでみました。すると彼は、なんと、自分の大事な所を丹念に丹念に舐めているではありませんか…。

(お前…さっきもその体勢してたよな?…てことは、さっきも同じ事してたよな?…お前、自分のソコを舐めたベロでもって、私の口を舐めたのか!?…バカか!?何だお前は!?お前はなんだ!?!?)

心のなかで散々に悪態をつきつつ、一目散に家へ。…顔を洗いました。

そんな私に、彼は今でも尻尾を振ってくれます。


あら?
これはもしかして下ネタのカテゴリに入るのでしょうか?読んで下さった皆さま申しわけありませんでした。


エドワード・オールビーの戯曲「動物園物語」に犬の長台詞といわれている一節があります。この「事件」の後で私はしきりにこの台詞を思い出していました。戯曲のほうは、愛の謎が「死」へと突き進む緊迫したもので、かたや私の現実のほうは間が抜けていますが、どうにも胸に響くのでした。

大好きな橋爪功&金田明夫の舞台を見るために予習として「動物園物語」を読んでいた最中に、私は父の看取りを経験し、その病室にも葬儀にも、それから何日かは眠る時もずっと胸に抱いて慰められていた、あの当時の、私のバイブルでした。

豆柴事件は、そんな私の個人的な重い記憶の結び付きを、笑いへと塗り替えたのです。あっさりと。

…じっさいね、犬に肉を食べさせようとした行為は、果たして愛の行為だったんだろうか?ことによると、あの犬がぼくにかみつこうとした行為こそ、愛の行為だったんじゃなかろうか。
われわれがのべつこんな風に誤解ばかりしてるんだとしたら、そもそもいったいなんで、愛なんて言葉を発明したんだろう?

エドワード・オールビー『動物園物語』
鳴海四郎 訳


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