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アーティストは「必要不可欠な」存在ということを、オーディエンスが体験的に実感していくために。

コロナ禍による行動制限や支援について、エッセンシャルワーカーの定義について様々に語られる中で、

「アーティストは必要不可欠であるだけでなく生命維持に必要」

ということを、私たちは確認しあいました。
しかし私たち聴衆・鑑賞者が、この事を一時の共感や理屈だけのものとして過ごしてしまわずに、自分事の体感として持っているか、ということについて、一つの体験を記しておきたいと思います。

ある時、「バーンスタインの『不安の時代』という曲が面白い」と教えてもらい、当時私は若くて素直だったので(笑) すぐにCDを買って聞きました。正直なところ、何だかよく分かりませんでした。また「この曲にはインスピレーションの元になった詩がある」というので、若くて素直な私はすぐにW.H.オーデン『不安の時代』を読みました。やはり何だかよく分かりませんでした。

よく分からないのはいいとしても、どうにも解せなかったのは、詩のエピローグは登場人物4人がバラバラに去って虚しく終わるのに、曲のほうは大団円的に盛り上がって終わるのはなぜか。バーンスタインは「インスピレーションを受けたのであり、忠実に曲にしたわけではない」と言ったらしいが、それにしてもおかしいのではないか、ということでした。

数ヵ月後。
実際の演奏を聞いたのです。よく分からないなりにも、生で聞いた心地よい余韻に浸りつつホールを出たのですが、人波におされ足早に駅へと向かううちに、音楽の余韻は消え、あっという間に現実の世界へと引き戻されてしまいました。

ほんの数分前に、皆でひとつのものに集中していたと思っていたのに、あの "熱" はどこへ行ってしまったのか。さっきまで舞台上に万雷の拍手を送っていた皆は、どこへ行ってしまったのか。ひとりホームで虚しく立っていて、唐突にあることに気付いたのです。

この既視感…。この感覚はまるでオーデンの詩のエピローグの様だ。
バーンスタインが用意していた本当のエピローグは曲の終わりではなく、「今」なのではないか。

そう思った刹那、全身に強烈な衝撃が走りました。

「あの物語は私の物語だ。詩も曲もよく分からないけどあの4人の哀しみは私のものだ。彼らは、私のことだ!」

そして、消えたと思っていた余韻が再び立ち上がり、今度の余韻はいつまでも消えないのです。

これが完全に私の誤読だったとしても、たとえ言葉で表せない感覚だったとしても、いいのです。私は「自分に出会ってしまう体験」をしてしまったのだから。
自分を発見すると、以前の自分には戻れません。私たちは社会システムの中で、自分を見失いながら生活しています。そうとは気付かぬほど、それに慣れてしまっています。気付いてみると、それが分かるのです。

自分を見失いながら、足下に崖が迫ったとして、それに気付けるでしょうか。
灯台の明かりを探せるでしょうか。
勇気を手にできるでしょうか。
人を愛せるのでしょうか。
自分を愛せるのでしょうか。

生きていられるのでしょうか。


生きているあいだに、「自分に出会ってしまう体験」が、あと何回できるでしょうか。

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