見出し画像

20歳の私がウズベキスタンに住みたいと思った理由

前回宣言したとおり、ウズベキスタンに興味を持ったきっかけ(住みたいと思ったきっかけですかね)を書いていきます。

初めてウズベキスタンの存在をしっかり認識したのは、高校3年生の世界史の授業だったと思います。(しっかり遅いですね笑)資料集に載ってたレギスタン広場を見て、そのブルータイルの美しさに心を奪われました。

ここでまっすぐウズ界隈に進むかというとそうでもないんです。受験生の私は将来の就職のことを考えて(?)歴史を専門的にやることは考えていませんでしたから、ここでいったんウズベキスタンとはお別れします。
歴史はあくまで趣味の範囲で、というスタンスだったのでしょう。

1年の浪人を経て立教大学法学部に入学します。法学部に進んだのも特別法に興味があったわけではなく、”なんとなく面白そうだから”こんな理由です。ろくでもないですね。

※大学の話はまた他の記事でするのでここでは割愛します

なんやかんやあって大学2年生秋、そろそろ就活を考える時期になって私は大きな壁にぶち当たりました。

それは「自分ってなんのために生きているんだろう?」という人生観を問う問題です。

死にたいとまでは思ってないけど、積極的に生きようともしてこなかった20年間だったため、いざ将来のことを考えるようになると「別にそこまでして生きたい理由もないしな~」と思ってしまったわけです。
言葉を変えると、「親に対して、ここまで育ててくれたことに最大限の感謝はすれども、生んでくれたことには一ミリも感謝してない」ということです。

そこから「非日常の提供で人生を豊かにしたい」とか就活で話すようにもなりましたが、いまいち他人志向の言葉が自分の中で納得できませんでした。


ここまで結構ひどいことを言っていますが、この負の感情に一筋の光を与えてくれた小説があります。(実は読書が結構好きです。)

『革命前夜』須賀しのぶ

革命前夜

『水よ踊れ』岩井圭也

水よ踊れ

この2冊です。

『革命前夜』は本屋で偶然見つけて帯の言葉に惹かれ、『水よ踊れ』は作者が好きなので、その人の新刊ということで手に取りました。
両者の共通項は「1人の日本人が海外の歴史的出来事に偶然にも立ち会い、その中で自分のアイデンティティを確立していく」ということです。

海外の人(特に政治的経済的要因でつらい状況に置かれた人)にとって、日本人というのは本当に無知な人種だと思われているそうです。(これらの小説の中では、ですが。)
これに関しては自分の中で結構納得しています。というのも日本って世界の端っこじゃないですか。(極東という名の通り。)世界の端っこの島国なんて、他の国とそう関わる機会もないんです。
ましてや他の地域との文化的交流もなかなか起きません。

そんな無知な日本人が、文化・思想の衝突の中で世界の中での自分の立ち位置に気づいていくこれらの小説は、自分の中にくすぶっていた気持ちに対する解決策を一つ示してくれたと思います。

自分の存在意義(=なんで生きているのか)を見つけるためには、海外を体験することが必要なんだ!ということです。

次に私は自分の知っている国々を考えました。どこに行けば自分の意義というものを理解できるのか、と。

そこで思い出したのが、高校3年生の時に見たレギスタン広場の写真です。
「世界にはあんなに綺麗な場所がある!これは行くしかない」と思ったわけです。
加えて、中央アジアは世界的にもトップレベルで民族・文化が衝突し、受容されてきた地域でもあります。
こんなにごちゃごちゃな地域であれば、今までの自分の人生観もひっくり返るのではと期待しているのです。


結構長くなってしまいましたが、つまるところ自分のためにウズベキスタンに住みたいんです。他人志向ではなくて申し訳ないのですが。
今はそのための方法を模索しています。どうにかウズベキスタンで仕事を見つけられないかと思っているのですが、なかなか難しいですね。コネ作りから頑張っていきます。とりあえず行きたい。コロナよ収まってくれ…。

今日はこの辺で。
日本人がウズベキスタンのことを全く知らないことにフラストレーションを感じている話はまた後日にします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?