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芥川賞受賞作 『ハンチバック』感想

遅ればせながら、芥川賞受賞作『ハンチバック』を読了しました。

簡単な感想を言いますと、小説として見過ごしがたい欠点はあるものの、純文学の「現代社会の一部分を描く」というところにおいては傑出しているので、芥川賞を受賞してしかるべき作品であったとの印象を持ちました。

まず、最初にあらすじを書きます。小説を批評するためですので、最後まで書くことをご了承ください。また、説明のため、一部、小説の書く順番やストーリーの時系列を変えています。

先天性のミオパチー(筋肉の疾患)を抱えた井沢釈華は、自身の両親から譲り受けたグループホームで生活している。釈華の「仕事」はインターネットのエロ記事などを書くライターであったり大学の通信講座を受講する学生であったりする。両親の財産があるため、金銭的には余裕がある。
釈華はSNSのアカウントを持っている。フォロワーがほとんどいない、いわゆる零細アカウントで、そこに「妊娠と中絶がしてみたい」などと投稿をする。
いつも釈華は女性ヘルパーに入浴介助をしてもらっていたが、人手不足のために男性の田中が行うことになる。田中は釈華の零細アカウントを知っており、田中はアカウントの存在を武器にお金をゆすろうとする。しかし、釈華はそれに動じることなく、むしろ自分から「取引」を提案する。釈華の財産と引き替えに田中から精子を受け取ることにしたのだ。
しかし、この「取引」は失敗する。釈華は田中に受精させる前にフェラチオを要求した。田中は口内射精こそしたものの、それからすぐに逃げ出してしまった。
その後、釈華は入院し、田中は釈華の退院の前にグループホームを退職することになる。釈華の欲求は満たされないままになる。
※ラストはとある高級娼婦の話で終わる。これは釈華がSNSのアカウントを使って「生まれ変わった」、釈華(釈花)の視点で語られる。なお、釈華は「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」というもうひとつの欲求を持っていた。

まず、ストーリーの構造について書きます。

「主人公に明確な欲求あり、その欲求を満たすために動くという」ストーリーの立てつけを守って書いたところは、さすが長いことエンタメ小説(BL)を書かれていた方だなと思いました。

もっとも、純文学でも主人公の考えがドライバーになってストーリーが動いていくことがよくあるので、小説の手法としては決してめずらしいものではありません。エンタメ小説の「欲求」が純文学だと「主義」になっただけ、ともいえます。

ただ、昨今の純文学では芥川賞受賞作でさえ、その主義がひとりよがりであったり、主義の強度が低かったりします。そうなってしまうと、ストーリーが弱くなってしまうのですが、本作は主人公の主義(欲求)が読者の理解可能なほどに描かれていたと思います。

「めずらしくない」とか、「立てつけを守った」とか、本作を悪く言ったように思われるかもしれません。私のいいたいことは、その逆です。読者に伝えようとすることをおろそかにしないことがなにより大事だと、私は考えています。

しかし、ストーリーを行動面で読めば、無理に気づかされます。妊娠して中絶したいという欲求のために1億5000万円もの財産をなげうつのは現実的ではありません。いくら主人公の欲求が切実であったとしてもです。

それと、ストーリーを動かすことになったSNSへの送信も書き込み(からの下書き保存)とくらべるとインパクトが弱すぎます。新しいフラグを立てたのはいいのですが、これでは気づかれないのではないでしょうか?

純文学では主義ベースで読んでもらえても、エンタメでは行動ベースで読まれてしまうので、このストーリーの取り扱いはエンタメ作家の作品として読むと致命的です。

あと、創作にあたり、作者は三幕構成を意識したのかなと思います。
①プロットポイントA:田中さんに入浴介助をしてもらうことになった
②ミッドポイント:田中さんと「取引」をした
③プロットポイントB:田中さんに口内射精をしてもらった
確かに、三幕構成で考えてみると第三幕が弱すぎる。主人公が入院して、田中さんが退職しただけではクライマックスにはなりません。だから、ああいうラストになったのかもしれないですね。

以上がストーリーの構成についての話です。

あとは、視点の話をして終わります。

本作にはいろんな視点が登場します。主人公の主観・客観、他の登場人物の主観・客観。私にはこの視点の重なり具合が面白かったです。

主人公に対して批判的な視点を向けているところが、小説を奥深いものにしています。主人公がSNSで書いたおどろおどろしい文章をいったん下書き保存したり、自分の書きこんだ内容に誰もいいねしないのは当たり前と考えたり。また「死にかけてまでやることかよ」と田中さんが主人公に吐き捨てるたり。読者にとって当たり前に思えることを一風変わった主人公に対してぶつけることが面白さにつながっています。

私としては、主人公が自己を客観視するところは、純文学の面白みのひとつであると考えています。純文学の主人公は強い主義を持っているがゆえに、逆に自己矛盾やためらい、対立の火種(これらをざっくりいうと、葛藤)を抱え込んでいます。主人公が葛藤に対してどのように向き合うかは、純文学にかかわらず、小説の重要な要素です。本作はそうした葛藤を多面的に描けていると思います。

『ゆきゆきて、神軍』のようにそこを省みずに突っ走るのも「逆をつく面白さ」なのですが、それは葛藤が大事という定石があってこそのものです。意図せず葛藤を書かないのとは訳が違います。

そんなわけで、『ハンチバック』。純文学ながら、障害者の持つ苦しみや欲求をエンタメの手法をもって描いた作品となりました。

障害者が主人公だから(社会主義的)リアリズムを追求した作品という読みは絶対にしないでください。本作には、そうした理想化された「リアリズム」とは違う、正真正銘のリアリズムが書かれています。リアリズムについてもっと書けよと言われそうですが、美術の話ですし、字数もあるので割愛します。

リアリズムという言葉が生まれた時代(19世紀中ごろのフランス)よりも、現代のほうが権威が相対化されているためにリアリズムを描くのが大変難しくなっています。本作はその難問に対してひとつの答えが出せたものと考えます。それだけでも、芥川賞を受賞するだけの価値があります。

追記:リアリズムを頭に入れて選評を読んでいると、面白いですね。島田雅彦は“アカ”だから安直に「リアリズム(=社会主義的リアリズム)」なんて言葉を使うし、同じ左翼芸人でも平野啓一郎は美術の知識が豊富だからか簡単に「リアリズム」の文字を使わなかった。

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