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【掌編小説】 僕の手の中にあるモノ


 これは、自分の為の文章だ。書くことでどんな効果がもたらされるのか、これを読むことで何が得られるのか、そもそも何を書きたいのか。それらの回答は皆無だ。しかし、目的地のない旅にでも意味はある。即時的な結果を求める必要などなく、たた書き留めておきたい感情なのだ。

 何年も前、ある時期に毎晩みていた夢がある。なぜ今になって、それを思い出したのかは分からない。なぜなら毎晩繰り返していた夢は、ある日を境に見られなくなり、先ほどの朝の散歩から戻るまでそんな夢があったことすら忘れていたのだから。近所の家の門を潜る猫と視線が合って、そのことを思い出したのだ。その猫の姿と夢との間の因果関係は分からない。しかし無意識の井戸の底の方では繋がっているのだと思う。失くし物の在かをふと思い出した時のように、その記憶の想起は僕に、喜びと驚きと、少しばかりの自責の念をもたらした。

 それは、広告会社に勤めはじめて、1年と数ヶ月が経った頃だったと思う。夢の中の僕は10歳ほどの少年で、ひまわり畑の中にいた。どういうわけか女の子用の麦わら帽子をかぶっていて、風に飛ばされないようにそれを押さえていた。

「見て」
 裸足の少女がひょこりと立ち上がって言った。僕らはギリギリ腕が届くくらいの距離で向き合っている。
「わたしのたからもの」
 そう言って彼女が差し出したのは、小さなランタンだ。キャンプなんかで使われるやつだ。彼女はそれを吊り下げるように持って、ふたりの頭上から照らしてくれた。その瞬間に辺りは暗くなり、光が届く範囲だけが世界のように感じられた。
 彼女が待っているのが分かる。でも僕は動くことができない。話すことができない。そうしているうちに、上に伸びた彼女の左腕がランタンの重みで下がってきた。光の届く体積が狭くなってきている。

「あなたのたからものはなに?」と彼女が言う。
「訊いてくれなくても分かっているよ」
 僕は分かっていた。彼女が僕を待っていること。僕がタカラモノを披露するのを待っていること。僕の動きを待っていること。でも待って欲しくはなかった。同時に、ここに留まっても欲しかった。

 僕のタカラモノは小さな石だ。少年の僕は石だと信じていたけれど、実際にはガラスだった。ガラス片が海に流されて角がとれ、表面は曇りガラスのようになっているものだ。無数の白い傷の奥には、ガラスには珍しい鮮やかな赤色が見えていた。シーグラスと呼ぶらしい(夢を見ている僕は知っているが、夢の中の少年はその名称を知らない)。

 少年の僕はハーフパンツのポケットに右手を突っ込んで、その「石」を指の中で転がしていた。手の中にあるものを、僕は彼女に見せることができずにいた。

 気がつくと彼女がいない。ランタンもない。僕の視覚を助けるのは月の明かりだけだ。寒い。僕はポケットから手を出して両腕をさする。太陽を失ったひまわりたちは、首を折って土を見ていた。

 僕の後方のずっと遠くに彼女がいるのが分かる。僕は振り返る。でも彼女はもう少女ではない。さっきと同じようにランタンを掲げている。僕は少年のままで、ふたりは別の世界にいることが分かる。

「僕のタカラモノはこれだよ」
 彼女に見せたかった。濁りながら透き通るシーグラスを。無数の傷で守られたガラス片。でもポケットに手を入れると、そこになかった。おかしいな。手放したつもりはなかったのに。

「そこにあるじゃない」彼女の声が遠くから聞こえる。
 ポタリと血が落ちたように、石は僕の足元にあった。少年の僕は拾い上げる。手に取るとさっきまでの鮮やかさはなく、かさぶたのような赤褐色をしていた。

「いいのよ。あなたはそこにいていいの」
 ランタンの灯りが消えると同時に、僕は目を醒ますのだ。

 頭に鈍痛を感じながら時計を確認すると、いつも決まって午前3時だった。夢の中の僕は歳を重ねることができなくて、現実の僕は少年のままでいられない。怖がる必要のないものに怯え、怯えることで逃げることを合理化し、時が過ぎるのを待って安堵するが、それらは何の成果ももたらさない。太陽が出たらまた首を伸ばして、ガラスを落としたり拾ったりしながら歩いて行かなくてはいけない。

ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。