見出し画像

【ショートストーリー】 ムカチカン


 眠れない夜だったんだ。僕はひどく酷く疲れていて、一刻も早く意識を飛ばしたかったんだけれど、ベッドの中でいくら目を閉じていても駄目でさ、明日を生きるために眠りにつくことさえも面倒になっていた。その時の気持ちをなんと表現したら良いんだろうな。絶望、とも少し違うな。失感情、というのがおおよそ当てはまるかもしれない。その夜の僕は、それまでの数日間に起こったことに対する感情というものを失っていたんだと思う。肉体はここに存在しているのに、心はそこにないような感じさ。<ctrl+x>で<切り取り>されて、まだ<貼り付け>されていない文字やデータにでもなったかのような。ここに存在していない、消えてもいない。どこにもいないけれど、どこかにはある。生きることにも死ぬことにも意味なんてないと感じていた。死にたい気持ちさえ湧いてこなかったさ。とりあえず保留にしておこう、って。ねえ、真夜中というと、君は何時を思い浮かべる? あれが何時だったかなんて知らないよ。とにかくそれは真の夜中だった。

 目の前に、シャラン、と細い鎖が垂れてきたんだ。僕がその鎖を掴むと、スルスルと登っていって天井に吸い込まれていった。鎖にぶら下がっておける腕力も握力も僕にはないはずなんだけど、どういう訳か僕はそのまま上がっていった。

 天井の奥に入ったんだと思う。きっと夢を見ていたんだな、知らないうちに眠っていてさ。まあとにかく聞いてほしい。そこでは液体でも個体でもあるような妙な物質に包まれていた。どろっとしたものではなく、云うならば細かな砂のようなもので。僕が動くと、その物質も一緒に動き、ぴったりと僕の身体を包む。目を開けることはできないけれど、瞼を通して、周囲は明るい光に包まれていることが分かった。

 僕を包む物質が発光しているのかもしれないし、その物質が外からの光を通しているのかもしれない。僕は水中で掻くように、四肢を動かしてみた。それは皮膚に接しているにもかかわらず、ほとんど感触を与えてこないんだよ。もしかしたらこれは気体なのかもしれない。

「これはキタイなのかもしれない」

 どこからか声が聞こえてきたんだ。僕の心を見透かした声だった。それは僕の脳内からではなく、明らかに僕の外から聞こえてくる。上か下か、後ろか前か。僕はその声の主を探して身体を動かした。

 物質に包まれているうちに、やがて上も下も分からなくなった。三半規管の機能はとっくに失われていて、自分が今横になっているのか逆さになっているのかも分からなくなってしまった。

「これはキタイなのかもしれない」もう一度声が聞こえてきた時、僕は壁を見つけた。といっても見たわけではもちろんなくて、壁と呼べるであろう面に触れたんだ。その面を触れながら辿っていくとそれほど広い場所ではないことが分かった。

 天井裏を通して、地下に潜ってしまったのだろうかとも思った。知らないうちに何かに入り込んでしまってさ、そうなったら恐いはずだろう? でも違うんだ。不安とは、全く逆の気持ちだった。

「ここはムカチカンのなか」

 また声がした。幼い女の子のような声なんだ。ムカチカン。

「ムカチのカンのなか」
 無価値の缶のなか。
「ここは、ムカチカン」

 産まれる前、胎内ではこうやって生きていたのかもしれないって思ったよ。温かくてね、柔らかくて。

「ムカチカンのつまった、ムカチカンのなか」
 無価値感の詰まった、無価値缶の中。

 僕をぴったりと包む、無価値感だよ。僕はただ包まれている。僕はここで浮遊している。無価値感が詰め込まれた無価値缶の中にいる。知ったんだ、無価値感は僕の中にあるものではなく僕の周りを漂うものなんだと。とても美しいんだよ。目に見えないもの、音のしないものを美しいと思ったのは初めての体験だった。

「ここで休んでいくといいよ」
「好きなだけここにいていいんだよ」

 そう言ってもらえている気がした。出ていく力なんて僕にはなかったし、出ていく方法も知らない。僕は動くのをやめていた。気持ちが良い。そのまま眠ったよ。暫くそこにいようと思ってね。僕のために作られた場所なんかじゃないさ、でもね、僕がいても良い場所なんだ思わせてくれる。

 そして目が覚めた。まだ真夜中だった。真夜中というのは、時間が伸びたり縮んだりするみたいだ。分かるだろう?
 
 夢かもしれないと言ったけれど、違うんだ、確かに僕に起こった出来事なんだよ。なぜって気がついた時、僕がいたのは屋根裏部屋だったんだから。僕は実際に天井をすり抜けてしまったみたいなんだ。一度きりのことだったけれど、鮮明に覚えているよ。でね、君の頬を触ると、あの物質の中にいた時と、同じ気持ちになるんだ。



ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。