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何のためにゴミ拾いをするのか~大切にしたい人生観とは~

今年6月にこんな記事を書いていました。


これを書いてから約4か月がたっているわけなのですが、ゴミ拾いはボチボチ続けています。


なぜ、ボチボチかといいますと、ゴミをひとつ拾おうとするだけで、もんのすんごい葛藤が生まれるようになったからです。


***

上の記事でも書きましたが、ゴミ拾いを始めようと思ったのことに対して、特に大きな理由はありません。

たまたま、神社について学んだからでした。

神社というと、神様という存在が欠かせないわけですが、でも、この世に神様がいるかどうかなんて誰も分からない。

だったら、とりあえず、今は、この世に神様がいると仮定して、神様が嫌な気持ちにならないように、ごみを拾おう。

だけど、ゴミ拾いをしているところを人に見られるのは嫌だから、家の前の20~30mの間だけ。

そんな軽~い軽~い、綿菓子みたいなノリの軽さでスタートしました。


始めはそれでよかったんですが、続けていくうちに、家の前の20~30mの道以外のところに落ちているゴミも気になるようになりました。

例えば、駅までの大通りに落ちている空き缶、駅構内に落ちているチラシ、電車の中にはレシート。

そういうのを見るたび、気になって気になって仕方ない。


いや、拾えばいいのは分かっているんです。

それで済む話っていうのも分かっているんです。

でも、やっぱり人の目を気にしてしまったり、あとは急いでいると、見逃さるを得なくなる。

人と会う約束をしたときなんて、ごみを拾って運よくゴミ箱があればいいけれど、行ったことない場所となるとゴミ箱の場所も知らない。だからと言って、拾ったごみを持っていくわけにもいかない。


ここで葛藤が生まれるわけです。

こんな感じで。

名称未設定のアートワーク (11)

(あ、ここまでの話、ついてこれています?笑 
深夜のノリで、半分、いやそれ以上に自己満で書いているので、何を考えているのが分かんない頭おかしいと思ったら、ここで閉じていただいて大丈夫です。(;^ω^))


道端でゴミを見つけるたびに、こうやって小人さんたちが毎回毎回議論するわけですよ。

そして、最後は、結局

「んで、お前はどうするの?どうしたいの?」

って問いかけてくる。

いや~、この問いかけが、わたしにとっては強烈で。

毎回毎回、頭を悩ますわけです。

***

でも、こういう選択ってゴミ拾いだけじゃなくって、何事にでも当てはまることかなとも思います。

この世の中、きれいごとだけを言っていたら説得力はないし、だからといって、数字だけを追い求めていったら強制力とか支配力とかにつながってしまう。

どれがいいとか悪いとか、そういうのはないし、状況によっては、その選択肢を選ばざるを得なくなることもあるのも事実。

相反するものにどう折り合いをつけて、統合して生きていくのか。

それは、何に幸せを感じて、どんな人生にしたいのか、裏を返せば、どんな死に方をしたいっていう死生観にもつながるってわけですね。

ただただ深夜のノリで書いているけれど、改めて深いな~と思います。

たかがゴミ拾い、されどゴミ拾い。ゴミ拾い侮れぬ。




PS

今日のnoteを読んでくださっている方の9割からは、頭おかしいんじゃないかと思われているのは、たぶん、いや絶対に間違いない、、、😇

うん、それでも人間として生きていきますよ、わたしは、、、😇


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