第一章 追懐 「七十五歳かぁ……。早いね」 はぁ〜と深いため息に乗せて隣ですみれが呟く。 亜美の母親の葬儀の帰り道、緑色に衣替えを済ませた夜の桜並木をすみれと二人、肌寒い風を纏って歩いている。 「私たちもさ、そういう年齢になったって事かぁ」 今度は一禾が呟く。四十歳を過ぎて親友の肉親の死という現実を目の当たりにし、不安のような焦りのような何とも言えないモヤモヤが溝落ちから這い上がってくる。 自分だけでは溺れそうなので、隣を歩くすみれも巻き添えにするように出た言葉だっ
今日も疲れた。インドネシア支社の担当課長の失態で大幅な損害を被ってから2週間と少し。全くと言って良いほど収束のめどが立たず残業続きの日々である。 終電はとうに出てしまい、今日もまた会社の仮眠室が仮の住まいと化している。 「これから一杯どうです?」 今年からウチの1課チームに加わった吉田だ。入社3年目にしては腕が利くので会社的にかなり期待できる若手だ。 飲みに誘われたら、いつも終電を理由に断っている立場上、付き合っても良いと思っていた。 会社帰りに飲みに出るな
未だ興奮が冷めやらぬ自分に苛立ちながら帰宅した亜美は、その勢いのままネギを刻んでいる。 夫の浮気の発覚と同時にすみれの不倫を知ってしまった。 夫だけでなくすみれにまで裏切られたようなこの胸の衝撃が堪らなく苦しい。 しかもその事実を一禾は知っていたにもかかわらず、すみれを黙認していたのだ。 亜美は一禾にまで裏切られたと思うと怒りを通り越して虚しくて泣きそうになった。 「ただいま~、お、いいにおい~腹へった~。」 「おかえり、ちょうど出来たところだよ。隼人の好
「じゃーねー! また明日!」 帰りのホームルームが終わると、誰にともなく挨拶をして、僕は校舎の裏庭の木にダッシュする。 小学三年生の下校時間はまだ陽が高く、昇降口からのたったこれだけの距離でもお気に入りの赤いシャツは汗でびしょ濡れ。 両膝に手をつき呼吸を整える。肩を大きく上下させているせいで、黒く伸びた地面の僕が怪物みたいに見える。ボタボタと額から落ちる滴が、夕立のそれのようでハッと我にかえる。 急がないと夕立が来ちゃう! 僕はランドセルを背中から剥がすと、
こんなハイシーズンでも空室のある民宿があった。海水浴場から少し坂を登ったところで、客室からは海が一望できた。料理も豪華で、穴場発見と言って二人で笑った。 夕食後バルコニーで涼む一禾を見ていた。華奢な背中に細い線。昔から変わらない。変わったと言えば髪の色が少し暗くなった事くらいだろう。そんなことを考えながら、このまま一禾の後ろ姿をずっと眺めていたいと思った。 先刻、暗闇の中で夜の海が好きだと言った一禾は沖に向かって歩いていた。たまに見せる寂しい顔が気になっていた。その寂しさ
大学在学中に父親のつてで知り合ったカメラマン田崎に心酔し、この人について行くことで頭がいっぱいだった。アシスタントとして器材管理や撮影場所の確保、データ編集や秘書業務とあらゆる仕事をこなしていた。 彼女は作らなかった。そもそも戦場のように忙しい毎日の中で彼女という存在は必要ではなかった。だが理由はそれではない。 一禾だ。圭の中には今でも一禾がいる。 月が綺麗な夜はきまって一禾の夢を見る。陶器のような青白い月の出た日は特にそうだ。一禾の飴玉のように丸い瞳いっぱいに映る月
「すみれ、本当におめでとう」 すみれと小林の結婚式はホテルのレストランで執り行われた。互いの両親に兄弟、親しい友人だけの控えめなものだった。 新郎は総合病院の息子だと聞いていたので、芸能人規模の披露宴を想像していた一禾は正直ホッとした。小林の父親は有名な外科医と聞いている。病院を手薄にできないだろうし、そもそも医者という職業は多忙だろう、大々的に執り行わないのは同士や部下への計らいなのかもしれない。 「やっぱりウエディングドレスくらい着れば良かったのに。一回くらい着ておく
病室のベッドに上半身だけ起こしている。腕には点滴の針が刺さり、右肩は包帯でぐるぐる巻きになっていて利き手が使えない。 入院も二週間を超えるとさすがに退屈だ。ベッド横の折り畳みパイプ椅子には一禾と亜美が座り、チーズケーキを頬張っている。美味しいねと幸せそうに顔を合わせる二人を見ていると、生きていて良かったと思えた。 あの日、すみれを襲ったのは春子だった。 肩に感じた重い圧迫感は、春子が覆い被さっていたせいだと思っていたが、実際は包丁で刺された衝撃だった。 華奢な春子が
従業員通用口の鍵を締め、駐車場へ向かう砂利道を歩く。 今日はこれから小林と食事に行くので残業の鬱憤も多少は気持ちが軽い。パンプスのヒールが埋もれないようにつま先に力を入れた。踵を浮かせて歩きながら、何が食べたいかと小林に聞かれたことを思い出す。 すみれはこれまで、店を選んだことがなかった。不倫の恋は、人目を逃れる事を最優先する為、「何が食べたいか」ではなく「何処で食べるか」を考えるのだ。そうすることに慣れてしまっているすみれは、店のレパートリーこそ多いが、そこがどんな料
「なんかすごく雰囲気のあるお店ね。小林さん、けっこうモテるでしょ」 小林が指定した裏路地の店は、しっとりとした大人のバーといった感じで、ジャズピアニストだろうか黒のジャケットに揃いのハットを被った男性が店の壁際に置かれたアップライトピアノで軽快な曲を奏でている。 バーテンダーの後ろの棚には、知らないラベルの酒瓶がびっしりと並んでいる。普段、抜け道としてよく使う道路なのに、こんなに良い店があったことに気が付かなかった。 「全然モテません。モテたくて髪型とか服に拘った時期もあり
土曜日のクリニックは午後は休診となる。 午前中の診療が終わる十三時頃になると、医療商材のディーラーや医薬品の情報提供をするMRが毎週やってくる。早く来た順に院長と話ができるということが暗黙のルールとなっている。 患者の居なくなった待合室の長椅子に腰をおろす。受付を通す患者と違って順番は各自で確認しておかないと、飛ばされても文句は言えない。看護師に呼ばれる事もないので、前の人が院長との話を終えて部屋から出てきたら自分の番ということになる。 レセプト処理をしながらその様子
あれから夫婦生活が変わったといえば、寝室を一緒にしたことだろうか。身体を重ねる事はないけれど、少しずつ夫婦らしい二人に戻ろうと歩み寄る努力はしている。 卓馬はこれまでの分を取り戻すように、外食を避け真っ直ぐ帰宅するようになった。 スキンシップも増えた気がする。 夕食は何にしよう。夫の為に献立を考える、妻として当たり前のことを一禾はもう何年もしてこなかった。妻の在り方次第で夫は変わってしまう。 一禾と卓馬の気持ちが離れてしまったのは、きっと身体の問題だけではないだろう
――――え? 卓馬? 一禾は何がなんだかわからず、ただ混乱している。 「なに言ってるの? 私、浮気したんだよ。寂しくて堪らなくなって、他人の優しさに逃げたんだよ」 「俺と離婚して、その相手と結婚するのか? だったら奪う。一禾の気持ちを取り返すよ。頼むよ……一禾……」 一禾の首に両手を回し抱き締め、肩に顔を埋めて呟く。その声は頼りなく震え、泣いているように聞こえた。信じられない。あれほどまでに一禾を拒否し続けた卓馬が、愛してるだなんて。目の前の夫のことが恐ろしくも感じた。
卓馬からの着信で目が覚めた。スマートフォンの時計は十九時を表示している。 すみれが帰ったあと気分が悪くなって横になった一禾は、いつの間にか眠ってしまっていた。 卓馬は夕食を外で済ませると言うので、また横になろうとすると急激な目眩に襲われた。吐き気も伴い、一禾は這うようにしてトイレまで辿り着いた。今朝からなにも食べていないので出るものがなく、吐き気だけが繰り返し一禾を襲う。 やっと落ち着いて部屋に戻り、パジャマに着替えてベッドに入った。軽い目眩が続く中、そろそろ生理が来
明け方から降り始めた大粒の雨を窓越しに見上げる。 耳と肩でスマホを挟み慌ただしく玄関を出ていく夫の背中を見送り、一禾は濃いめのコーヒーを淹れた。卓馬は接待ゴルフだと出掛けていった。 天気予報はこれから晴れるとなっているが、雨でグショグショのコースでもプレーできるものなのか、とゴルフをやらない一禾には分からない。 なんだか胃がムカムカする。昨日珍しく早く帰宅した卓馬に誘われた焼肉屋で食べ過ぎてしまった。そのせいだろう。コーヒーが心地よく内蔵に染み渡る。 今日はなんとな
帰りの電車の中、すみれは頭を抱えていた。 亜美の夫との待ち合わせに現れたのはなんと、トオルの妻、春子だった。 「こんな偶然てある? ドラマみたいだよね」 一禾は両肘を抱く格好で怖いねと言って肩をすくめている。 一体どこで知り合ったのだろう。そんなこと、考え出したらきりがない。SNSでどうとでもなるご時世だ、何が起こってもおかしくないのだから。それよりも、亜美にどう説明しようかと考えあぐねている。 すみれは撮影した画像を最大まで拡大してみる。何度見ても春子だ。手のひら