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第十二章 悋気


 帰りの電車の中、すみれは頭を抱えていた。
 亜美の夫との待ち合わせに現れたのはなんと、トオルの妻、春子だった。
「こんな偶然てある? ドラマみたいだよね」
 一禾は両肘を抱く格好で怖いねと言って肩をすくめている。
 一体どこで知り合ったのだろう。そんなこと、考え出したらきりがない。SNSでどうとでもなるご時世だ、何が起こってもおかしくないのだから。それよりも、亜美にどう説明しようかと考えあぐねている。
 すみれは撮影した画像を最大まで拡大してみる。何度見ても春子だ。手のひらで青白く光るスマホに向かってため息をついた。

「ちょっと落ち着こうよ亜美。思春期の子供がいるんだからさ、先ずは旦那と話し合ってみなって」
 裁判を起こすという亜美をすみれと一禾が宥めている。
 すみれが撮ったツーショットと亜美が持っているメッセージをやりとりした画像を証拠として突き出して訴えると言って聞かない。
 息子の受験を控えているこの時期に、多感なメンタルにどんな悪影響を及ぼすかと思うと、生産性のない亜美の考えに正直呆れた。今は何を言っても無駄だろうと、一禾と話し、少し放っておくことにした。同時にすみれは、この事実をトオルに話そうか、やめようか、迷っていた。
 花弁を一枚ずつ順に「話す」「話さない」とむしり取るようにふたつの言葉を頭の中で繰り返していた。

 ショッピングモールで妻と買い物中のトオルを見かけてから、彼のマンションを訪れるのは久しぶりだった。 
 あの日、同じ店にすみれがいたということにトオルは気付いていない。
「久し振りのすみれだ……。早く欲しい……」
 トオルはすみれを激しく求めた。熱を帯びた大きな手が触れるたびに、すみれの口から甘い喘ぎが漏れる。
 トオルは、会えなかった分を取り戻すかのように何度もすみれを求め、すみれもまた、ショッピングモールで見た妻に向けるトオルの優しい笑顔を払拭するように熱情を込めてトオルを求めた。
「もっと、もっと……」
 すみれがねだると、それに応えようとトオルは激しく抽挿し、堪らずにすみれが声をあげると力強く突き上げる。すみれが達した後も、ぐったりした細い身体を激しく揺さぶった。
 気の遠くなるような快感に溺れ、トオルは水のように色の無くなったものを何度も絞り出した。
 明け方まで続いた行為も鳥の囀りが聞こえる頃には寝息に変わっていた。
 果てた末に隣で眠る男に、先日の浮気調査の一件を話そうと決めている。
 トオルに話したところで、すみれにはたいして影響のない事だろうと思い至ったからだ。
 すみれはトオルを起こさないようにそっとベッドから出ると、シャワールームへ向かった。
 髪を乾かし寝室へ戻ると、トオルはベッドに起き上がり咥えた煙草の煙に目を細めている。
 隣に身体を滑り込ませると、トオルはまだ長さのある煙草を灰皿に押し付け、すみれの背中に腕を回した。
「おはよ」
 言い終える前に唇を吸われ、湿った声が漏れる。徐々に激しさを増す舌の動きに、すみれの奥がまた疼く。
「話って、なに」
 すみれの首元に唇を這わせながら、トオルが寝起き特有の掠れた声で囁く。
 すみれは、トオルに話があると言って昨晩ここに来たのだ。
「そうね、先に言っておくけど、泣かないでね」
 意地悪にすみれが言うと、トオルはその細い首筋に思いきり吸い付き、赤黒い痕を残した。
 それを返事代わりと理解したすみれは先日の喫茶店での出来事を話した。
「トオルの奥さんね、浮気してる。その相手が友達の旦那でさ、正直参った」
 すみれは敢えて感情を込めず淡々と話し、そう締め括った。
 すみれの胸元に舌を這わせながら話を聞いていたトオルの動きが止まっている。
 しばらく動かない。
「トオル?」
 覗くようにしてトオルの顔を伺う。
 するとトオルの顔がみるみる血の気を失い白くなっていくのがわかる。
 すみれが順を追って詳しく話したせいか、なんの疑いもない様子でトオルは黙って全てを聞き入れた。
 視点が定まらず、口元を手で覆うトオルは明らかに動揺している。
 取り乱す寸前というか、平常を保てるか気が狂うかの紙一重といった様子だった。
 こんなトオルを見るのは初めてで、トオルではない別人じゃないかとすら思った。
 正直、意外だった。それは、すみれの敗北を意味した。
 すごい勢いで服を着るトオルを呆然と見ていた。目の前のすみれが全く目に入っていない様子で、その視線はすみれを透かして何かを見ていた。焦点の合わないトオルから感じたのは、妻に対する怒りではなかった。
 まさかトオルがこんなに取り乱すとは思っておらず、取り返しのつかない失敗をしたのだと、ひどく後悔した。焦りから足が縺れ、バタバタと部屋を出ていくトオルの姿は滑稽すぎて笑ってしまった。
 結局トオルは、すみれに「また連絡する」とだけ言って慌ただしく出ていった。妻の元へと帰って行ったのだろう。
「ばっかみたい……」
 咥えた煙草の湿った臭いが鼻につく。もともと長く続けるつもりはなかった。だからこの部屋にはすみれの荷物は何一つ無い。
 自分が出ていったらそれで終わるのだ。
 既婚者との関係は自分の心を置き去りにして終わらなきゃいけない時がある。だからすみれは、上手くいっている時もそうでない時も感情を持たないと決めていた。
 本当に突然来るもんなんだ……。先程までの情交は夢の中の出来事だったのだろう。「バイバイ、トオル」
 背後で玄関のドアが閉まる。合鍵は持たされていない。欲しいとも思わなかった。だから、もうこの扉は開かない。
 これで良いのだ。
 これが正しいのだ。
 コインパーキングから車を出すと雨が降りだした。大粒の滴が、瞬く間に灰色の地面を真っ黒に染めていった。
 早天の雨の中、すみれは車を走らせた。
 行き場所は決めていない、気持ちを元居たところに戻したいだけ。
 いつのまにか、いつもトオルの助手席で辿っていた道ばかり走っている。
 記憶の裏側に貼り付いているトオルとの日々が意思に反して存在を示してくる。のめり込まない、感情を持たない、と自分をコントロールし、上手くいっていたはずなのに。こんなの平気だと思えば思うほど、思慕の情に潰されそうになる自分の内側に爪をたてて悶えることしかできない。
 愛してるなんて言葉に調子に乗っていたのかもしれない。妻にしてみれば、夫をそそのかした魔性の女だ。どこかの国では、姦通罪という重罪を犯した犯罪者として、見せしめに耳や鼻を削ぎとられると本で読んだことがある。それでもいっかと諦める自分と、ここは日本だから大丈夫と安堵する自分が、すみれの感情を力ずくで取り合っていた。
 溢れ出る涙で視界が歪み、すみれは公園の駐車場に車を入れた。サイドブレーキを引くと、それが合図だというように、抑えきれなくなった感情が一気に吹き出した。
 すみれは漏れる声を隠すようにオーディオのボリュームをあげた。海までの道中、トオルと聴いたCDが、レゲエ特有のドラムビートと、うねるようなベースラインを奏でている。
 何曲流れただろう。豪快に泣いたら空腹感で胃がくっつきそうなことに気が付いた。
 ルームミラーに写る目は真っ赤で、目蓋はぽってり腫れて可笑しかった。
「あんた不細工だねー」
 ミラー越しの自分も大口を開けて笑っていた。


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