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第十九章 怨情


 従業員通用口の鍵を締め、駐車場へ向かう砂利道を歩く。
 今日はこれから小林と食事に行くので残業の鬱憤も多少は気持ちが軽い。パンプスのヒールが埋もれないようにつま先に力を入れた。踵を浮かせて歩きながら、何が食べたいかと小林に聞かれたことを思い出す。
 すみれはこれまで、店を選んだことがなかった。不倫の恋は、人目を逃れる事を最優先する為、「何が食べたいか」ではなく「何処で食べるか」を考えるのだ。そうすることに慣れてしまっているすみれは、店のレパートリーこそ多いが、そこがどんな料理を出す店かまでは覚えていなかった。そう思うと、自分がしてきた恋愛はいけない恋、間違った恋愛だったのかと落ち込んだ。
 はぁーっと大きくため息が漏れる。これから先、いわゆる普通の恋愛ができるのだろうか。トオルとの付き合いが、自分のなかでの恋愛における定義のようになってしまっている以上、それはとても難しいことに思えた。小林に気持ちが傾きつつある今、どこかでブレーキをかけたがる自分がいる。それは、トオルにまだ気持ちがあるからではなく、小林と紡いでいく「恋愛」に自分が順応できるのだろうか自信が持てないから。小林を傷付けてしまわないだろうか。結局自分は罪を償う事以外に選ぶ権利などないのだ。
 さわさわとクリニックの表玄関傍に佇むハナミズキが葉を鳴らす。もうすぐ秋がやって来て、やがて冬になる。冷たい風がこの葉を剥いでいくだろう。次の春に可愛い桃色の花を咲かせる頃には、すみれの心も少しは晴れているだろうか。不意に小林の笑顔が浮かぶ。頼りないけど優しい目。すみれは無性に逢いたくなった。早く小林に逢いたい。車の後部座席にバッグと弁当箱の入った袋を乗せドアを閉めた。運転席のドアに手をかけたとき、背後からの砂利を踏み締める音が近付いて来ることに気が付いた。
 今日はすみれが遅番で、戸締りをして出てきた。すみれ以外の従業員は全員ずっと前に帰った。忘れ物でもしたのだろうか、すみれは徐に振り向いた。すると目線の先にあったのは意外な知った顔だった。
「あれ、どうし――――」
 どうしたんですか? と言い終える前に、色を失くした能面のような顔がじりじりとすみれに近付いてくる。言いようのない恐怖がすみれを取り巻く。地面から脚を伝って震えが這い上がってくるのを感じた。すると能面だった顔がみるみる般若の形相へと変化し、すみれに向かって両手を振り上げる。まだ高い位置にある太陽の光を受け、振り上げられたものが反射して輝いた。それはまるで、命を吹き込まれた刀剣のようだった。
 次の瞬間、肩に重い圧迫感がのしかかった。すみれは避けようとすれば避けられた。けれど、避けなかった。
 死の予感がした。このまま死ぬのだろうか。死ぬだろう。

 ――――ありがとう。
 ――――さよなら。
 ――――ごめんなさい。

 ――――許してください。
 ――――許さないでください。

 罪を償うとはこういうことなのだろう。

 ――――熱い。
 ――――痛い。
 ――――苦しい。

 痛い。全身を突き抜ける激痛で意識が遠退く。すみれは力が入らない脚を踏ん張り、車に寄りかかりながら身体を支えた。激しい疼痛に触れるとぬるりとベタつく感覚に、それが血液だと安易に想像できた。
 呼吸が荒くなり、声が出せない。悪寒と吐き気に襲われ涙が止まらない。

 ――――痛い、寒い…………眠い。

 浮かんだのは小林の頼りない笑顔だった。早く逢いたいと願った罰が当たったのだと思った。これまでの罪を償わず、幸せの方向に歩き出そうとした罰。
 耐えきれず砂利に突っ伏して倒れた頬の下を生臭い暗赤色の液体が流れていく。あぁ自分は死ぬのだろうか。そう思うと泣けてきた。先程まで死んでもいいと思ったはずなのに。もう誰の愛情も欲しがらないと誓ったはずなのに。小林を想うと涙が止まらない。すみれは、ぬるい血に溺れていく自分を笑った。
 もうすぐ小林がここに来る時間だが、少し遅れると連絡があった。それで良かったとすみれは思った。最後に小林の顔を見たら死ぬ事を惜しんでしまうだろうから。
 あぁ、亜美と仲直りできなかったな……。
 こんなお別れじゃ後味が悪いと言って怒るだろうか。こうなったら化けて出て行って謝ろうか。余計怒らせるかな。怒った亜美の顔を思い出したら笑えてきた。

 ――――ごめんね、亜美。

 そうだ、一禾の子供にも会えないや……。出産祝いに何でも買ってあげると約束したのに。一禾との約束を破ってしまう事が心苦しい。ごめんね。
 ドクンドクンと鼓動に乗って湧き出る血が、その表面張力を破りじんわりと広がっていく。その先に佇むリボンをあしらったピンク色のつま先を、すみれは横目で見つめた。
 そのつま先は恐る恐るという感じで後ずさると、踵を返して走って行った。何かを大声で叫びながら走り去る姿を、赤に染まる視界から見ていた。
 どうせ殺すなら一気にやって欲しかった。

「痛いじゃん……あぁ……さむ……い」

 真っ黒の闇の中、すみれを呼ぶ声が聞こえる。小林かも知れない。ハウリングして聞き取れない声に必死に耳を澄ます。聞こえるのは濁って響く誰かの叫び声と遠くのサイレンの音。
 それも徐々に闇に沈んでいった。


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