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第十五章 受容


 ――――え? 卓馬?
 一禾は何がなんだかわからず、ただ混乱している。
「なに言ってるの? 私、浮気したんだよ。寂しくて堪らなくなって、他人の優しさに逃げたんだよ」
「俺と離婚して、その相手と結婚するのか? だったら奪う。一禾の気持ちを取り返すよ。頼むよ……一禾……」
 一禾の首に両手を回し抱き締め、肩に顔を埋めて呟く。その声は頼りなく震え、泣いているように聞こえた。信じられない。あれほどまでに一禾を拒否し続けた卓馬が、愛してるだなんて。目の前の夫のことが恐ろしくも感じた。
「相手はいない。それっきり。だから、一人で育てるって決めたの。それに卓馬、あんなに私を拒絶したくせに、今さらなに? 他の男に取られるのが癪に障った?」
 一禾の口からは、これまでの寂しさや虚しさが言葉となって溢れ出てくる。
「私……寂しかった……虚しかった。自分は女じゃないって言われてる気がして、もう愛してもらえないって思って辛かった……」
 だから浮気をして良い理由にはならない。分かっている。分かっているのに、まるで卓馬に八つ当たりするみたいに、一禾は攻め立てた。
 あの時の一禾は圭を愛していた。気持ちの踏ん切りは付けたものの、今でも忘れたわけじゃない。圭の子供ができたと知ったとき、とても嬉しかったのも事実だし、今もその気持ちは変わらない。
「……めん……ごめん、い……ちか……」
 ごめん。ごめん。と泣きながら繰り返す卓馬が、親とはぐれた子鹿のように、ぶるぶると震えている。何か重大な過失を懺悔するみたいに、自分が悪い、すべて自分の責任だと震えている。
 一禾は、卓馬がすんなり離婚届にサインをするだろうと思い疑わなかった。目の前で泣きながら震える卓馬に、一禾はただ戸惑うことしかできなかった。
 長い沈黙の中に、卓馬のすすり泣きだけが響いている。
 更に時間をやり過ごし、卓馬の呼吸も整ってきた。一禾にしがみついていた腕を剥がし、真っ直ぐ一禾の目を見据えた。真っ赤に潤んだ目はすがるように一禾を見つめている。何かを覚悟したような卓馬の瞳に、一禾を糾弾する気はないように感じた。
「俺な、子供ができないんだ。黙っててごめん。こんなの結婚詐欺だよな。一禾には話すつもりだった。でも、それで一禾が俺から離れていくと思うと怖くて言えなかった。日が経つごとに言いづらくなって、最近は母さんも子供を急かしてくるし、余計に言えなかった……」
 卓馬はぬるくなったビールを喉に流した。フッと短く息を吐き、更に続けた。
「一禾としない日が続いて、いつの間にか欲情しなくなって……勃たなくなった。もう男として終わったって思って……一禾をその気にさせちゃまずいと思ったんだ。だってそうだろ? 物理的に無理なんだから。勃たないのを知ったら、一禾が傷つくと思って避けたのに、その事が今度は一禾を傷つけた。だから、一禾が他の誰かに求めても仕方ない事なんだよな……」
 最後は自分に言い聞かせるように、だから全部、自分の責任だと卓馬は言った。

 卓馬は、一禾と結婚して三年目の冬に自分が子供を作れない体質だということを知った。あの頃はまだ二人一緒の寝室で、同じベッドで寝ていた。二人とも子作りに前向きで、一禾の排卵日を把握し計画的に夫婦生活を営んでいた時期だった。基礎体温をつけてみても一禾にこれと言った原因が見当たらず、日を追うごとに一禾の焦りが顕著になった。
 医者は精神的なものかも知れないから気にしないようにと一禾を諭した。
 ある日、同僚が夫側の不妊を心配して検査をしたという話を聞いた卓馬は、念のために自分も検査を受けた。軽い気持ちで受けた検査だった。そこで現実を突きつけられた卓馬は、受け入れられず悩み、苦しんだ。
「本当はあの時に、俺が離婚してあげていれば一禾はもっと、ずっと早くに子供を授かることができたかもしれないのに……ごめんな……いちか……でも俺、一禾のことが大好きだから、どうしても本当のことを言い出せなかった……ごめ……ん……」 

 ――――なにそれ……嘘でしょ……。

 あれだけ盛大に拒否反応を見せておいて、一禾を思ってのことだったと言う。そして愛しているのだとも。あまりにも想定外の状況に、一禾はただ呆然と卓馬を見つめることしかできない。一禾がこれまで何度、涙に溺れる夜を過ごしてきたか。これまでどんな思いで義母の言葉を受け止めてきたか。元を辿ればすべて自分のせいということになるのだろうか。取り返しのつかないことをしてしまった。
 憶測で亜美が言っていた、夫に相手にされないからと腹いせに浮気をする妻。実は自分がその妻なのかもしれない。腹の底から吹き出す罪悪感という深い沼に飲み込まれていく自分を、一禾はただ嘲笑うことしかできなかった。
 俯き、肩を震わせて泣く卓馬がその事実と一人で闘ってきたのかと思うと、一禾はやるせない気持ちだった。それが本当なら、妻として、もっと早くに聞いてあげるべきだった。気付くべきだったのだ。
 結局、一禾は求めるばかりで卓馬の気持ちを考えようともしなかった。そういう事になる。でもそれは、事実を知った今だからそう思うだけなのだろうか。分からない。
 一禾はあの日、すみれの不倫を亜美が咎めたとき、自分に矢印を向けない亜美に憤慨したことを恥ずかしいと思った。結局、自分もまた自分勝手な人間だ。
 卓馬は、自分の体のことも、子供の父親のことも義母には知らせないでほしいと言った。
 余計な心配をかけないためだと卓馬は言ったけれど、本当の理由は一禾の想像の中にあるような気がする。これが正解かと問われれば、丸はもらえないかも知れない。でもこれが一禾と卓馬それぞれの愛の形だから、子供には精一杯の愛情を注ごうと決めた。
 この先、圭に逢うことはないだろう。そのつもりもない。
 一禾はあの日のまま、圭を想い出のファイルから削除した。

 この先にある夫婦の形がどうであれ、お腹の子供は一禾の子だ。命がけで守る、それが使命だと言うように一禾の気持ちは晴れていた。
 全ての責任は自分にあると言う卓馬に感謝しないといけないのかも知れない。不貞を犯した一禾を一度も責めず受け入れた。
 一禾は、その卓馬の思いごと全部を自分が受け入れ生きていく事を誓った。

 義母は予想通りのリアクションで、一禾は申し訳なくて心が押し潰されそうだった。
「一禾ちゃんは座ってて~。高齢出産なんだから、絶対に無理しちゃダメよ」
 相変わらずの物言いだが、義母なりに一禾の身体を気遣ってくれている。こうなると言うことを聞いた方が良いということは、これまでの経験で心得ている。 一禾は台所には入らず、リビングの掃き出し窓からデッキに出た。真夏ほどではないが、初秋と言うには気温の高い午後のぬるい風がしっとりと肌を撫で付ける。
 庭先の大きなサルスベリの枝先に、濃いピンクの小花が集まるように咲いている。
 風が吹くたびに弾む枝にトンボがとまるれず行ったり来たりしている。
「一禾、ありがとうな」
 いつからそこにいたのか、卓馬がそっと呟き一禾の腰に回した手をグッと寄せた。
一禾は卓馬の腕に身重の身体を任せ、サルスベリの枝先でホバリングするトンボを眺めていた。
 離婚届を差し出した一禾に、卓馬はサインをせずに押し返した。不貞を犯した妻を許し、他人の子供を認知する。更には自分の子供として一緒に育てていくとまで言った。たとえばそれは、卓馬に負い目が無くても変わらないとも。
 以前亜美が、夫婦には子供が全てで子供のために自分たち夫婦が生かされていると言った。 一禾は、今ならそれが理解できるような気がした。卓馬は自分の負い目を、一禾の中に宿った小さな命を守ることで折り合いをつけようとしている。卓馬はたとえそれが他人の子であっても、全てを受け入れようとしている。
 ふと、都合の良い解釈かもしれない、と不安になる。だがそれは自分への贖罪として持ち続けなければならないと一禾は思う。
 サルスベリの花先にトンボが止まった。
 ピンクの布団に身を委ね、気持ち良さそうに揺れていた。


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