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第十七章 予感


 土曜日のクリニックは午後は休診となる。
 午前中の診療が終わる十三時頃になると、医療商材のディーラーや医薬品の情報提供をするMRが毎週やってくる。早く来た順に院長と話ができるということが暗黙のルールとなっている。
 患者の居なくなった待合室の長椅子に腰をおろす。受付を通す患者と違って順番は各自で確認しておかないと、飛ばされても文句は言えない。看護師に呼ばれる事もないので、前の人が院長との話を終えて部屋から出てきたら自分の番ということになる。
 レセプト処理をしながらその様子を見ている児島すみれは、就活男子が面接に来たみたいな光景にいつも笑ってしまう。
 今日も最後は梶製薬の小林か。他の担当者たちよりもだいぶ年下に見える彼は腰が低くて人が良さそうだけれど、どんくさい印象なのは、本当はもう二、三人ほど前に来ているくせにいつの間にかあとから来た担当者に抜かされているからだ。つい先程も携帯で話しながら一分ほど席を立った時に、後から来たMRに抜かされた。通話の時間から、後でかけ直すと先方に伝えただけだろう。見ていてイライラしてしまうほどには、どんくさかった。
「小林さん、お疲れ様です。おもて閉めちゃったので、裏の従業員の玄関からでいいです?」
 こういうときの営業スマイルは、すみれの右にでる者はいない。
「あぁ……すいません……時間推しちゃってますよね」
 結局、いちばん最後の順番になってしまった男は、薬剤の資料やパンフレットでパンパンになった鞄を重そうにぶら下げ、そそくさと裏口へ向かう。
「また来週お伺いします」
 深々と頭を下げ、駐車場へと向かう足取りがよろめいて、すみれはフッと吹き出した。
 待合室の時計は十六時を少し回ったところを指している。久しぶりに一禾をご飯に誘おうとスマホの連絡先を呼び出す。
「あ、ダメか……」
 そういえば一禾は妊娠中で、悪阻の真っ只中だった。ファーストフード店のフライドポテトしか受け付けないと言っていたことを思い出した。それならフライドポテトを土産に持って行こう。
ドライブスルーが混んでいたので、すみれはファーストフード店の駐車場に車を停めた。店の入口に向かう途中、三台ほど奥の駐車レーンに小林の姿があった。つい先ほど別れたその顔は困り顔で、車の外から運転席の窓を通して中を覗きこんでいる。時折、腰に手をあて天を仰ぎ、後頭部を掻きむしる。誰が見ても何かあったことは明確だった。 
「小林さん? あ、もしかして、鍵?」
 相当取り乱していたのか、すみれが小林の名前を二回呼んでも気がつかず、三回目でようやくこちらに気付いた。
「あ、あの……えっと、鍵失くしちゃって……」
「インキーしちゃったの?」
 頼りなさすぎる相手に、すみれはつい敬語を忘れてしまった。
 覗いた車内は雑然としていた。資料やパンフレット、薬品サンプルだろう段ボールや紙袋で酷いありさまだだ。更にスマートフォンまでもが助手席の端で埋もれているのが見える。すみれは捨てられた子犬みたいに切ない目をした男に自分のスマートフォンを貸してやり、可哀想な子犬は業者に依頼の電話をかけた。
「三、四十分で来てくれるそうです。ご迷惑かけてすいませんでした」
 小林はスマートフォンの画面をハンカチで拭い、ありがとうございました、と言ってすみれに差し出した。
 すみれは、「気にしないで」とそれを受け取った。ハンカチを綺麗に畳み直してポケットに戻す小林の手元を見て、この男は几帳面なのかだらしないのか、気になった。
「待っている間、中でお茶しません? 業者来るまでスマホ無いと不安でしょ?」
 目の前の不安な目をした子犬のような小林を放っておけなかった。
 コーヒーを二つ注文して、駐車場側の窓に面した席に座った。軽食を注文しようかと聞いたが、財布をバッグごと車内に閉じ込めてしまった小林は遠慮しているのか、コーヒーだけで大丈夫だと言った。
「ほんと俺ってダメだよなぁ。児島さんが来てくれて助かりました」
 小林は改めて、ありがとうと頭を下げた。
「でも意外だったな、児島さんてきれいなお姉さんて感じだから、オシャレなカフェとか行くのだと思ってました。こういう店にも来るんだ」
 悪気の無い瞳でニコッと微笑む。いただきます、と言ってコーヒーを飲んだ。
「やだなぁ、どんなイメージなのよ。私、ジャンクフード大好きよ。今日だって友人と食べようと思ってポテトを買いに寄ったんだから」
 そうだ、悪阻で何故かフライドポテトしか食べられない一禾の手土産を買いに寄ったのだ。 
 でも根拠のない自分に対するイメージは、中年の女としては素直に嬉しい。
「え、す、すみません。じゃあもう行ってください。お友達にも申し訳ないので……」
「あぁ、いいのいいの。友人には行く事まだ言ってないし、時間はあるから」
 毎週土曜日の午後はトオルと逢っていた。先日の悪夢のような出来事を思い出す。今頃トオルは妻と上手くやっているだろうか。
 トオルとの想い出は、あの日の取り乱したトオルの姿に打ち消され、慌ただしく去って行く後ろ姿しか思い出せない。
「――島さん、児島さん?」
 我に返ると心配そうにこちらを伺う小林と目が合った。
「大丈夫ですか? すごい溜め息だったから……」
 無意識のうちにどんな顔をしていたのか、すみれは恥ずかしくなって俯いた。
「大丈夫ですか? 児島さん顔色も良くないし、体調悪いんじゃないですか?」
 確かにすみれは体調不良だ。トオルと事実上の別れを自覚したあの日から、あまり眠れていない。最近ファンデーションの色が合っていないと感じたのは、この顔色のせいだったのか。
「うん、最近ちょっと寝不足でね」
 今日も眠れないだろう。というより眠りたくないというのが正直なところだ。トオルの夢を見るのが怖いから。
「あ! あー。そっか車だ……」
 なにやら一人でぶつぶつ言う小林が、
「アロマエッセンス! サンプルを貰ったんです。リラックス効果を売りにしている商品なんですけど、車の中でした」
 あちゃーと残念そうに項垂れる小林の優しさが、干からびたすみれの心にじんわりと染み込んだ。
「ありがとう。なんだか元気でたわ」
 重いバッグによろめく後ろ姿、おろおろと車の中を覗く顔、ハンカチを丁寧に畳む仕草。不安で泣きそうな子犬みたいな目。短時間で見たいろんな小林の表情が、パテ剤のようにすみれの心のひび割れに流れ込み、隙間を埋めてくれた。
 業者は三、四十分と言っていたそうだが、予定より早く二十分ほどでファーストフード店の駐車場に到着した。小林は何度も礼を言い駐車場へと走って行った。すみれは一禾への土産にフライドポテトの特大サイズと、いくつかデザートを買って店を出た。
 三つ奥の駐車スペースの車のドアに棒を突っ込んでいる作業着の男性と、それを見守る小林の姿がある。すみれはクラクションを軽く二回鳴らし、駐車場を後にした。
 信号待ちの車内は揚げたての油の臭いが充満し、耐えきれずに窓を開けた。夏と秋の間の季節は風が心地よく吹き込む。横断歩道を渡る親子の弾む声がすみれの耳をチクリと刺激する。信号が青に変わると、すみれは窓を全開にした。
 耳に残るどこかの家族の余韻を、油の臭いと一緒に窓の外へ追い出した。


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