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第十三章 紊乱


 明け方から降り始めた大粒の雨を窓越しに見上げる。
 耳と肩でスマホを挟み慌ただしく玄関を出ていく夫の背中を見送り、一禾は濃いめのコーヒーを淹れた。卓馬は接待ゴルフだと出掛けていった。
 天気予報はこれから晴れるとなっているが、雨でグショグショのコースでもプレーできるものなのか、とゴルフをやらない一禾には分からない。
 なんだか胃がムカムカする。昨日珍しく早く帰宅した卓馬に誘われた焼肉屋で食べ過ぎてしまった。そのせいだろう。コーヒーが心地よく内蔵に染み渡る。
 今日はなんとなく体調が冴えないので、久しぶりにゆっくり本でも読んで過ごそうと決めていた。何冊か買ったきり読んでいない本があったことを思い出し部屋の本棚を見てみると、驚くことに手をつけていない本が優に二十冊を超えていた。ショッピングバッグに入ったまま放置されているものもあり、今こうして見るまで買ったことすら覚えていなかった。
 そういえば以前、買いっぱなしの本を「積み本」といって、そこに置いておくことに意味がある「積読」という読書術だという、なにやら哲学的な本を読んだことがある。その本をもう一度読み直そうと探す。
 今は恋愛小説を読む気持ちの余裕がなかった。
 あの日、ユリの丘と海が見える民宿での出来事が、またひとつ圭との綺麗な想い出となってしまったからだ。
 一禾は、積まれた本の中からミステリ小説とエッセイ本、それから例の哲学的な新書を手に部屋を出た。
 リビングへ向かう途中、読書の間に洗濯機を回してしまおうと思い脱衣所へ足を向けたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 卓馬が忘れ物でもしたのかと思い、急いで玄関に向かいながらインターホンを軽く覗き見ると、その小さな画面に亜美が写っていた。
「こんな朝早くにごめん」
 憔悴しきった様子が気になる。
「別にいいけどさ、何かあったって感じだね」
 一禾は向かいのソファーに亜美を座らせ、コーヒーを置いた。一禾が向かいに腰を下ろすと、亜美が徐に持っていた茶封筒からホチキスで閉じられたA4サイズ程の束を出した。
 一禾に向けられたその表紙には、「調査報告書」と書いてある。一禾は瞬時に状況を把握してしまった。
 先日、夫の浮気を確信した亜美は、裁判沙汰にすると言って聞かなかった。止める一禾の話しも耳に入らないくらい興奮していたので、時間をおいて様子を見ている最中だった。
 もちろん、夫の浮気相手がすみれの交際相手の妻だということは、一禾の口からは伝えていない。
「一禾、これ見てもらえるかな」
 何となく嫌な予感がした。こういうときに感じる「何か」はたいてい当たる。
 激憤なのか、痛嘆なのか、亜美が涙を拭う仕草は見ていて辛かった。
 調査書には、亜美の夫の動向が日毎に細かく書かれていて、何枚もの写真が添付されている。浮気相手の女と楽しそうに写っている夫の写真は、事情さえ知らなければ恋人同士と言って誰が疑うだろう。
 ページをめくっていくと、浮気相手の女の夫であるトオルに触れた内容もある。
 相手はプロだ、当然そこも調べるだろう。
 そして最後のページ、これもトオルについての報告書で、添付された写真が一禾の恐れていた予感そのものだった。
 トオルと腕を組み、顔を寄せて笑っている女性はすみれだった。どう見ても恋人同士という写真だった。至近距離で撮影されたのか、高性能の望遠レンズなのか、よくもまぁここまで上手に撮れたものだと関心してしまった。想定内のことだったので、一禾は驚かない。ただ、どうやって亜美に説明しようかと考えていた。
「一禾は知ってた?」
 何を? と間抜けな返事は通用しない。
 すみれとトオルの関係を一禾が知っていたと、亜美は分かって聞いているのだ。
「うん、知ってた」
 できるだけ淡々と、たいした問題じゃないふうを装う。
「この前話そうと思ったんだけど、亜美がすごく興奮してたし心配だったから、後にしようってすみれと話してたところ」
 付け加えてそこまで言った。
 それまで黙って聞いていた亜美は、俯いていた顔を上げ、一禾を睨むような視線を向けた。
「すみれが不倫してたこと、知ってたの?」
 亜美の目がゆらゆらと涙に支配されていく。知ってたと応えた一禾に亜美はさらに続ける。
「一禾はどうしてすみれを止めないの? 友達が不倫してたら普通は説得するでしょ。一禾がちゃんとすみれを止めていてくれたら、その奥さんだって浮気なんかしなかったかも知れない」
 そう言ってこちらに向けられた射抜くような鋭い眼光が一禾を責め立てた。
 要は、トオルの浮気を知った妻が腹いせに自分も浮気をして、その相手がたまたま亜美の夫だったと。だから、トオルさえ浮気をしなければ夫婦円満だったとでも言うような口ぶりに、言っていることがめちゃくちゃだけれど、そうでもしないと自分の気持ちに折り合いがつけられない亜美の気持ちも分からなくはなかった。
「だいたい、人の旦那に平気で手を出すなんて信じらんない。汚い。許せない」
 その言葉はトオルの妻に向けたものだろうか。それとも、すみれになのか。いや、どちらもか。
 一禾は、堰を切ったように泣き出した亜美をただ見ていることしかできなかった。
 亜美の言っていることは間違っていないし一般論だろう。
 少し前の自分だったら、亜美寄りの考えだったかもしれないと一禾は思った。でも今の一禾は、亜美の言い分に後ろめたさを感じている。すみれとは逆の立場だが、自分も卓馬という夫がいながら圭と関係を持ってしまった。圭とはあれきり終わった話しだが、事実は変えられない。
 以前すみれは、今のトオルだから好きになったと言った。積み重ねた経験で手にした地位や人格をひっくるめて、完成形である現在の彼に惚れたのだと。だが妻からすれば、恋人同士の頃からの絆を危ぶまれ、夫婦として共に積み上げた歴史を横取りされたと思うのだろう。
 亜美は泣き続け、一禾はなにも言えず、ただ沈黙のまま時間だけが過ぎていった。
 再び玄関チャイムが鳴る頃には、雨は上がっていた。
 その場の空気が一瞬途切れ、一禾は何となくホッとした。だが次の瞬間、衝撃が走った。インターホンにはすみれの姿がある。なんというタイミング。よりによって早朝のこんな時間に鉢合わせなんて神様の悪戯としか思えない状況だった。
 ドアノブに手をかけた瞬間、一禾の胃のムカつきが増した。
 ソファーに向かい合って座るすみれと亜美を、一禾はキッチンのダイニングテーブルから見守っている。
 気の利いた仲裁役も出来ずに、ただ見ているだけの一禾の不安をよそに、亜美の怒りは加速の一途を辿る。
 自分に負い目を感じているすみれは「ごめんね」と謝り続けていた。
「ごめん、不倫なんて絶対ダメなことだってわかってる。彼と会うたびに罪悪感でおかしくなりそうだったよ。でも、やっぱり好きだから、どうにも出来なかった」
 自分の気持ちに抗えない時がある。それは一禾にも理解できた。 
「好きなら他所の旦那さんをたぶらかして良いんだ? 横取りして良いんだ」
 確かに不倫は罪だ。
 一禾自身も、圭のことで後ろめたさを感じているし、悪いことをしてしまった自覚がある。
 亜美は、自分は被害者だという姿勢を崩さない。一禾は、そんな亜美の態度を当然と思いながらも違和感を覚えた。
 調査書の写真で見たすみれとトオルは幸せそうで、一禾は羨ましいとさえ思った。
 すみれに微笑むトオルの笑顔には深い愛情しか感じられなかったからだ。亜美もきっと同じように感じているはず。なんとなく一禾はそう思った。
 夫が自分以外の女性に惹かれる理由やその原因に、亜美はきっと気付いているはずだ。だがそれを認めてしまえば夫の浮気を許すことになってしまう。亜美もまた苦しいのだ。
 夫が浮気相手と会瀬を続けるということは、少なくともその相手と過ごす時間を尊いものだと感じているからだろう。
 夫を奪われたと文句を言う前に、自分に矢印を向けて、自分に何が足りないのか、何か気に障ることをしてしまったのだろうかと、考えられないのだろうかと思ってしまう一禾は、もう既に不倫をする側の人間だった。これまで他人の不定行為を否定してきた自分が、まさかその当事者になるとは考えもしなかった。
 言葉尻で一禾に同調を求めてくる亜美の目を見ることができなかった。
 以前、息子が虐めにあっているかもしれないと、亜美に相談されたことがあった。亜美は、虐めている本人をを吊し上げる勢いで怒り狂っていた。どうにか落ち着かせようと宥める一禾とすみれに
「二人には子供がいないから、私の気持ちなんて分からない」
 と言った。
 虐められる方にも相応の理由があるから息子とよく話をした方が良いと言い返したすみれと言い争いになった。子供を持たないすみれも一禾も、子を持つ親の気持ちなどわかるはずがないのは本当のことだと思った。子供を守ろうとする親の気持ちを汲んで、一禾はその時、すみれに言いすぎだと注意した。
 人の価値観はそうそう変わらない。浮気をする夫、もしくは寄ってくる女が悪だと考える亜美側の人間と、夫に浮気をされる妻に落ち度があると考えるすみれ側の人間。
 直近でどちらも経験してしまった一禾は、正直、どちらも悪だと思った。
 夫や愛人に憤慨する妻は、なぜ夫が自分より相手を選んだのかという考えに至らず、ただ相手を攻め立てる。一方、都合の良いときだけ燃え上がる愛人は、綺麗な自分だけを残像と一緒に置いていく。結局のところ、どちらも自分が一番なのだと思った。
 一禾は、圭のことを考えた。圭と再会したとき、一禾は結婚していることを隠そうとした。結局バレてしまったが、できることなら隠し通したかった。圭に何かを期待した自分もまた、自分勝手な人間なのだ。
「たぶらかしたわけじゃない。横取りするつもりもなかった。ただどうしようもなく好きになっちゃった。自分の気持ちに気付いた時には、もうどうにもできなかった。ごめんなさい」
 何度もごめんなさいと言うすみれ。自分を責めている姿を、一禾は見ていられなかった。
「子供がいないすみれには絶対に分からないことだと思うけど、その彼と奥さんの間に子供ができたら、すみれなんか棄てられる。愛人なんて所詮その程度。それを何を勘違いしたのか知らないけど、まるで自分が妻になったような顔でいる。最低だよ。すみれも同じ目に遭えばいいんだ。すみれなんて――」
「亜美!!」
 一禾は咄嗟に叫んでいた。
 亜美が我に返る。すみれは俯いたまま、ごめんね、と呟き唇を噛んだ。
 涙を堪るすみれの表情から、亜美に反論する気が無いことがわかる。
「どうしてすみれが泣きそうなの。悪い事をしているのはすみれなのに、私の方が泣きたいよ」
 昂る感情に肩を上下させながら感情を吐き出すと、息子の昼食の準備をするからと言って亜美は帰っていった。
 空気は重かった。結局、最後まで亜美の怒りはおさまらず、すみれに「絶交」という台詞を捨てて行った。
 もうすぐ昼になる。朝からコーヒーしか口にしていないのに食欲が無いのは先程の修羅場のせいだろう。
 一禾は、すみれが買ってきたパンを皿に並べ、コーヒーを淹れ直した。
「今朝ね、トオルのマンションの帰りにここに寄ったんだ」
 呟くように一言づつすみれが話し出した。
「トオルに話したんだ。奥さん浮気してるよって。そしたらトオル、すごく取り乱して、私のことなんて視界に入ってませんて感じで、奥さんのところに飛んで帰った」 
 すみれはソファーに背中を預け、天井を仰ぐと、「ばっかみたい」と笑った。
「結局さ、妻には敵わないんだよね。亜美の言うとおりだよ。離婚しないって時点で気づくべきだった。離婚して欲しいなんて一度も言ったことないけど、やっぱりどこかでそう願う自分がいたんだよね」
 一禾にこんな話しても困るよね、ごめん。と言い、ため息をついた。
 すみれが亜美に一言も言い返さなかった理由が分かった。
 既に身をもって思い知らされていたところへ、亜美に嚇怒されたのだ。
「すみれ、泣いていいよ。辛かったね」
 一禾はすみれの頭を抱き締めた。静かに泣くすみれの吐息で胸が熱かった。
 すみれが圭と重なった。圭もすみれのように、一禾の離婚を望んでいたのだろうか。
 婚約者がいると言ったけれど、もし卓馬と離婚したら……。考えても仕方のないことだ。もう圭はいないのだから。
 圭と過ごした記憶が綺麗すぎてお守りのようになっている。一禾は何となく圭も同じ気持ちでいるような気がした。
「あースッキリした」
 一禾の胸から顔を上げたすみれは、涙と鼻水でグチャグチャだった。
 どこか吹っ切れたような表情に、一禾は安堵した。
「なんか一禾、顔色が悪い気がする」
 ティッシュで鼻を拭きながら、すみれが心配そうに覗きこんでいる。
「素っぴんだからじゃない?」
 そう返すと、そっか。と言った。
 確かに今朝から何となく調子が上がらない。食欲も無いし身体が重い。一禾は、それを全て今朝の騒ぎのせいにした。


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