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第十六章 従容


 あれから夫婦生活が変わったといえば、寝室を一緒にしたことだろうか。身体を重ねる事はないけれど、少しずつ夫婦らしい二人に戻ろうと歩み寄る努力はしている。
 卓馬はこれまでの分を取り戻すように、外食を避け真っ直ぐ帰宅するようになった。
 スキンシップも増えた気がする。
 夕食は何にしよう。夫の為に献立を考える、妻として当たり前のことを一禾はもう何年もしてこなかった。妻の在り方次第で夫は変わってしまう。
 一禾と卓馬の気持ちが離れてしまったのは、きっと身体の問題だけではないだろう。少しずつ漏れ出てしまった自分勝手な欲に心が支配されたことが原因なのだと思う。
 一禾は卓馬に愛情を求めるばかりで、彼の苦しみに気付こうともしなかったのも事実だ。
 今夜は卓馬の好きな肉じゃがにしよう。

 すみれをランチに誘ったのは、妊娠の報告をするためだった。先週の一件がそのままの状態なので、なんとなく気まずくて亜美には声をかけなかった
 相変わらず女性客で賑わう店内は、BGMが聴こえない程のしゃべり声で騒がしい。普段はのんびり過ごしたいので、この店は選ばない。でも何となく今日は雑然とした空気の中で話したい気分だった。
「ビックリした。けど、先ずはおめでとう。結婚して何年だっけ? 旦那も相当喜んだでしょう」
 すみれもすごく喜んでくれている事が、目の輝き具合でよくわかる。
「えっと、四十半ばで生まれるから、子供が小学校に上がる時の一禾は……えっと……え! 授業参観とか相当気合い入れないとだな~」
 幼稚園の運動会はちゃんと走れるか、うんと歳の離れたママ友とは上手くやれるのか、散々冷やかされたけれど、幼稚園の運動会も小学校の授業参観も、行事にはすみれが付いてきそうで可笑しかった。
 卓馬と話したあの日、子供の父親については二人の中だけに留めようということになった。墓場まで持っていく夫婦の絆みたいなものになったのだ。
 ふと考えることがある。この先、子供の父親を巡って問題が起きたりしないだろうか。本当に卓馬は納得しているのだろうかと。一禾はこの先も、出ない答えを求めて出口のない闇を彷徨うのだ。
 すみれにだけは、銀行で圭に再会したこと、圭と泊まりで出掛けたこと、愛し合ったこと、さよならしたこと。事の全てを順に話そうと何度も考えた。
 真実を知ったすみれはきっと祝福してくれるだろう。でも、だからこそ言わない。
 すみれは最初から手に入らないとわかってトオルを好きになった。その過ちに、自分を犠牲にすることで贖罪を果たそうと決めている。欲しがらず、求めず、蔑み、トオルの妻や亜美に懺悔する。そんなすみれに、夫を持ち、何の不満もない自分が、浮気相手の子供を生むだなんて言えるはずがない。
 本当のところは、セックスレスで、長い間夫に愛されず、義母に悪態をつかれ、心が死んでしまう寸前に圭に引き上げられてやっと立っていられた。でもそんなことは、表向きは円満な卓馬と一禾を見てきたすみれにしてみれば、自分勝手な愚行としか思えないだろう。
「ね、生まれるのって来年の春でしょ? 名前どーするぅ~」
 デザートのチーズケーキにフォークを刺し、
 やっぱり「春」を使おうよと言いながらリストアップし始めた。
「まだ性別も判らないのに気が早すぎ」
 呆れたけれど嬉しい。生まれる前から愛されている我が子。これから先もたくさん愛していこう。
「出産祝い、何がいいか考えておいて! もうね、なーんでも買ってあげちゃう」
「やった! 何にしよっかな~。遠慮しないよ」
「どーぞどーぞ」
 先のことは、先に行ったときに考えよう。
 今はこの愛しい旧友にたっぷり甘えよう。そして彼女に最高の明日が来ることを心から祈ろう。


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