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第十四章 宿望


 卓馬からの着信で目が覚めた。スマートフォンの時計は十九時を表示している。
 すみれが帰ったあと気分が悪くなって横になった一禾は、いつの間にか眠ってしまっていた。
 卓馬は夕食を外で済ませると言うので、また横になろうとすると急激な目眩に襲われた。吐き気も伴い、一禾は這うようにしてトイレまで辿り着いた。今朝からなにも食べていないので出るものがなく、吐き気だけが繰り返し一禾を襲う。
 やっと落ち着いて部屋に戻り、パジャマに着替えてベッドに入った。軽い目眩が続く中、そろそろ生理が来るのかなと思い至った。 
 一禾のPMS(月経前症候群)は、歳を重ねる毎に症状が重くなってきている。学生の頃は、軽い腹痛程度だった。それなりに痛みに苦しんだ時期もあったが、バスケットボール部で毎日の厳しい練習に紛れて、今のように寝込む程ではなかった。
 PMS(月経前症候群)とは、Premenstual Syndrome の略で、生理三~十日位前から始まるさまざまな精神的、身体的な不調のことで、中には症状が出ない人もいて一禾はそんな友人を恨めしく思っていた。
 出産を機に症状が改善すると聞いたことがあるが、その機会が訪れない一禾のような人間は閉経まで耐え凌ぐしかないのだろうか。
 そもそも何十年もの間、一体自分は何のために生理痛に苦しむのかと考えると、この無駄な苦痛に辟易した。

 ――あれ?

 記憶に違和感を感じ、一禾はすぐさま手帳を確認した。先月の生理はいつだっただろうか。毎月付けている印がない。よく思い出してみても、生理痛で苦しんだ記憶すらなかった。一禾は、顔からサーっと音が出ていると思うほど、血の気が引くのを感じた。
 翌日、仕事帰りに病院に寄った一禾は、女医から妊娠していることを告げられた。役場に行って手続きをする説明を長々と聞かされたが、内容は頭に入ってこなかった。
 正直、嬉しくて飛び上がりたい気分の後すぐに、ものすごい罪悪感が押し寄せた。
 卓馬にどう説明しようか考えた。お腹の子供は卓馬の子ではないことは明確で、また、圭の子供であることも確実だ。
 体調こそ良くならないが、圭との子供が自分の中にいるという現実が夢のようだった。
 妊娠を知ったら圭は喜ぶだろうか。考えるだけ虚しい。圭はもういない。自分ではない他の誰かと新しい生活を送るのだ。喜ぶはずがない。
 時間が経つにつれ、喜びよりも不安が顔を出した。圭は自分ではない別の人と結婚する。もう既にしているかもしれない。もし産むとなれば、卓馬と離婚するのは当然のことだし、一人で育てる覚悟を決めなければならない。
 その週はずっと調子が悪かった。ドラマのように突然「うっ」と来るような吐き気は無いものの、怠さと胃のむかむかでろくに食事もできなかった。
 ただ、トイレにこもるようなことも寝込むこともないので、普段から外で食事を済ませて帰宅する卓馬に気づかれることはなかった。
 寝室も別で日頃のスキンシップも無いので、一禾の微熱が続いてることすら卓馬は知らない。事実を知ったら、卓馬は何て言うだろう。怒るだろうか、それともあっさり別れるのだろうか。義母は激怒するだろう。塩を撒かれるかもしれない。それでも良いと思う自分がいる。
 今夜も卓馬の帰りは遅かった。話があると言っておいたが仕事だから仕方ない。
 卓馬がシャワーを終え、ビールを手にリビングのソファーに腰をおろす。
 卓馬と話をするために、一禾は先に座って待っていた。向かい合ったソファーの間にあるガラステーブルの上には緑の紙がボールペンと共に置かれ、傍らに印鑑ケースが並んでいる。
 一禾は俯いて座っている。卓馬の足先がこちらに向かい、一瞬止まった。離婚届に気付いたのだろう。そろそろと一禾の前に腰をおろすと、卓馬が息を呑むのがわかった。カタンとビールの缶が音をたてた。
 一禾の欄は既に記入済みで捺印もしてある。 
 どのくらいの沈黙だったか、しばらく黙っていた卓馬が口火を切った。
「一禾、本気か?」
「うん、ごめんなさい。離婚してください」
「理由は……俺だよな」
 卓馬は途切れながら呟いた。こういうときの卓馬は泣きそうな顔をする。きっと今もそうだろう。俯いたままの一禾には見えない。
 卓馬は、セックスレスが原因だと思っているのだろうか。もしそうなら意外だった。
 一禾の気持ちを知っていて、少しでも後ろめたさを感じていたのだろうか。
「それもある。でも、決定的な理由が他にあるの」
 一禾は、ふーっと長めに息を吐く。どんな言葉を返されても受け止める。そう覚悟してここに座っている。
「子供ができたの。当然だけど、卓馬の子じゃない。産みたいから離婚したい。ごめんなさい」
 一禾は感情を込めずに話す。
 卓馬は何も言わず小さい溜め息を何度も繰り返している。妻の不貞を知り怒りに震えているのだろうか、裏切られて傷ついているだろうか。そのどちらもか……。
 顔をあげたら殴られるだろうか。いや、卓馬はそういうことは絶対にしない。ぐるぐると思考を巡らせていると、視界の端で卓馬が立ち上がった。その足先がテーブルの縁に沿って一禾のところで止まった。反射的に肩をすぼめきつく目を閉じる一禾の頬に卓馬の手が添えられた。久しぶりに触れられた卓馬の手は温かかった。
 卓馬は恐る恐るという感じの手つきで、両手で頬を包むように一禾の顔を自分に向けた。見上げる位置で視線がぶつかる。泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔をした卓馬が一禾を見つめている。こんなふうにちゃんと顔を合わせたのはいつぶりだろう。
 卓馬はウンと小さく頷き、決心した様子で言葉を紡いだ。
「生んでくれ。でも離婚はしない。俺は一禾を愛してる。だから、俺の子として産んでくれ」


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