短編小説|ベイカー
エトーにとって、パン作りは趣味であると同時に、ある種の快楽を得る手段となっていた。たいてい週末の時間を使ってパンを焼く。小麦粉から自分の手で生地を作り、こねて発酵させ、成形し、オーブンに入れて焼く。シンプルな丸パンやフォカッチャから、八つ編みのずっしりした大物まで作った。パン作りのために、わざわざ家賃が割高なオーブン付きキッチンのある部屋を借りている。
パン作りは祖母から教わった。エトーの祖母も、週末にパンを焼くのが習慣だった。まだ幼かったころ、日曜日の午後に紅茶を飲みながら祖母の焼いたクロワッサンやブリオッシュを食べるのが、彼の一週間で一番の楽しみで、焼き立てのパンを求めてキッチンに入り込み、やがて両手を生地でべとべとにしながらパン作りを手伝うようになった。
はじめは、真っ白でさらさらとした小麦粉から、ふっくらしたパンが焼きあがる魔法のような技術に魅了されていた。たとえ発酵が足りずに高さが出なかったり、生地に塩気が多すぎたりしても、祖母は必ずいいポイントを見つけてはエトーのパンをほめた。そして、無人島で遭難中に世界で一番おいしい食べ物にありついた人のようにうれしそうに食べた。エトーはそんな祖母を見るのが大好きだった。祖母が死んでからも、彼は一人でキッチンに立ちパンを焼き続けた。彼の両親や兄はよろこんでパンを食べたし、近所でも彼のパンの味は評判だった。皆、口をそろえてほめた。もちろん、エトーはそれを誇らしく感じていた。でも、彼のパン作りの目的はある事件を境に別の方向へと変わっていった。
学校で、隣の席のリウタがエトーの分度器を盗んだ。正確に言えば、算数の時間にエトーが貸した分度器を、そのまま返してもらえなかった。エトーが何度返してくれと頼んでも、リウタは分度器なんて借りた覚えはない、としらをきった。結局、分度器はエトーがなくしたことになった。そして、エトーはめずらしく母親に叱られ、新しいのを買ってもらった。
エトーは優しい少年だった。友だちと喧嘩をしたことがなかったし、両親の言いつけに逆らったこともなかった。モンシロチョウを捕まえようとして誤って両手で潰してしまったときは、あまりのショックに丸二日間寝込んだ。そんな彼は、リウタのことも心の中で許した。分度器は、本当に自分がなくしたのだと思い込もうとした。すべてに対して慈悲深く、その慈悲深さの代償として大きなストレスが彼にのしかかっていた。時々エトーは、だれかに嫌な思いをさせられたことを思い出し、悔しくてたまらない気持ちになることがあった。一度は許したはずなのに。そうなると、彼の両腕の筋肉には力が入り、ぴくぴくと痙攣するように震えた。そのまま叫びだして手当たりしだいに滅茶苦茶にしてやりたい衝動を必死に抑えた。日曜日、その感情の発作はパン作りの最中にやってきた。生地をこねているとき、突然算数の時間の記憶がフラッシュバックした。思わず、両腕の筋肉が震え出した。普段ならこらえていたが、ちょうど、怒りをぶつける対象が自分の両手の中にあった。エトーはリウタの顔を思い出しながら、ものすごい勢いでパン生地を叩きつけるようにこねだした。喉の奥から叫び声がもれた。あまりに激しい勢いでこねたので、母親がキッチンをのぞきにきた。
そうして、怒りを発散した末に焼き上がったひとかたまりのちぎりパンを、その日、エトーは近所の友だちの誕生会に持って行った。主役の子は、チョコクリームをたっぷり塗りつけられたバースデーケーキとプレゼントの包みの中から現れたビデオゲームに夢中で、白っぽくて地味なちぎりパンには目もくれなかった。でも、同じテーブルに偶然、あのリウタが座っていた。リウタはテーブルの隅のちぎりパンを珍しそうに眺めた後、手を伸ばした。エトーはその様子をじっと見ていた。リウタが、エトーの焼いたふっくらしたパンを手でちぎり、大きく開けた口に含み、もぐもぐと咀嚼する。口の中で、唾液がパンにしみこみ、繊維がほどけ、舌の上にほのかな甘みが広がる。そんな様子を想像したとき、不意に、得も言われぬ興奮がエトーの身体中を駆け巡った。彼が憎しみを込めてこねて焼いたパンを、その憎しみの矛先、張本人であるリウタが、おいしそうに食べて、その体内に取り込んだのだ。まるで、最大限までチャージしたエネルギー砲を敵にぶち当てたような快感。エトーにとって、人生を変える衝撃的な出来事だった。誕生会の会場からどうやって家に帰ったのか、エトーは覚えていない。その日の夜、彼は眠れなかった。ちぎりパンを食べるリウタの様子を、テープを巻き戻すように何度も何度も頭の中で反芻した。
以来、エトーは他人に嫌な思いをさせられると、その人への憎しみを込めてパンを焼き、あわよくばそれを本人に食べさるようになった。そうして、とても人には言えない快楽を得ることが、彼のパン作りの目的になっていった。
学校を卒業して、税理士事務所に務めはじめてからも、ひそかな快楽を伴った家庭的な趣味は続いた。毎週日曜日、エトーはキッチンに立ってパンを焼く。自分が作ったパンを、彼は味見の時以外はほとんど食べようとしなかった。就職して一人暮らしをはじめてから、彼のパンを食べてくれる家族や友だちは近くになく、週末に焼いたパンは、ほとんどそのまま月曜日に職場に持ち込まれ、同僚たちの手にわたった。同僚たちはよろこんで食べた。パンをあてにして、月曜日はランチを持ってこない者もいた。そしてそのランチの時間、ろくに働かずに仕事を押し付けてくる上司のケージや、自分のミスを人になすりつけて上司にいい顔ばかりしている同僚のヨースケが、ベーコンエピやくるみ入りパンをもぐもぐと食べるのを横目に見て、エトーは平静をよそおいつつ快楽にもだえるのだった。
ある日、地元の友だちのムラタケがエトーの家を訪ねてきた。用事があって近くまで出てきたついでに、遊びにきたということだった。中学から高校まで一緒で、よく漫画を貸し借りした仲だったが、就職してから会うのははじめてだった。エトーはこれまでムラタケから取りたてて嫌な仕打ちを受けたことはなかったので、フラットな気持ちでフォカッチャを焼いてもてなした(正直に言えば、こういう時、エトーはいつもの快楽を味わえないことに少し残念な気持ちを抱いた)。ムラタケは、エトーのソファーに家の主のようにどっかりと腰かけて、紅茶を飲みながらトマトとオリーブののったフォカッチャを次から次へと口に運ぶ。「お前のパンはプロ並みにうまいな」と口をもぐもぐさせ、また別のフォカッチャに手を伸ばしながら「自分でパン屋をはじめたらどうだ」と唐突に言い出す。そんなことを考えたこともなかったエトーは反射的に「そんなの無理だよ」と答える。すると、ムラタケは「お前のパンなら絶対大丈夫!」とエトーの目をまっすぐ見ながら、「俺の親せきに、空き家を持ってるおばさんがいるんだけど、ちょうど入ってくれる人を探してる。店舗にも使えると思うし、俺の紹介なら家賃安くできるよ」と具体的な話を持ちかけてきた。
自分のことのようにやる気満々のムラタケを帰らせた後、エトーはしばらく考え込んだ。ムラタケの提案は魅力的だった。今の生活の中で、パンを配ることができるのはほぼ職場の中だけ。いかに職場といえども、憎い人が無限に湧いて出てくるわけではない。それが、パン屋になったらどうだろう。毎日、たくさんの客がきて、彼の焼いたパンを買っていく。街中の人が、朝食やおやつに彼のパンを食べる。でも、そんなに順調にパンが売れるだろうか。失敗すればそれなりの借金を背負うことになる。溜息をついて、目をぎゅっとつぶる。パンをもぐもぐと咀嚼するリウタの口元がまぶたの裏に浮かび上がってくる。髭にまみれたケージの口元や、やけに白い歯をしたヨースケの口元も。そうだ、店にはカフェスペースも作ろう。そうすれば、店にいながらパンを食べる人たちをこっそりと観察できる。食べる人が増えれば、快楽は今の何倍にも膨れ上がるだろう。欲望が、彼の慎重さを凌駕した。彼は税理士事務所を退職し、すぐにパン屋開店の準備を始めた。堅実にこつこつと貯めてあった貯金を元手にして、ムラタケの紹介で、都心から離れた戸建て住宅と畑ばかりの街に、店舗を借りることができた。外にはテラス席を設けて、念願のカフェスペースも実現し、彼にとっての人生の楽園となるべき小さなパン屋ができあがった。
もともとパン屋の少ない街だったから、街中からパンを求めて客がやってきた。とても優しく穏やかそうに見えるエトーに、近所の主婦たちはすぐに好感を抱いたし、何より、幼いころから毎週末の訓練で磨かれた彼のパン作りの腕はたしかなものだった。口コミサイトでは、「都心に店を出してもやっていけるレベル」という投稿とともに、高評価がついた。
開店から三か月ほど経ったころ、ムラタケは気まぐれにエトーの店に顔を出した。平日の夕方のことだったが、店内は賑わっていて、外のテラス席では子ども連れの母親たちがパンをつまみながらお茶をしていた。ムラタケは銀のトングをカチカチ鳴らしながら店内を歩き回り、やっと選んだソーセージロールとカレーパンをトレーにのせてレジへ向かう。ちょうどエトーが店の奥から現れた。その姿を見て、ムラタケは驚いた。エトーの顔は青白く、以前会った時よりも目に見えてげっそりとしている。「おいおい、大丈夫か?」と思わずムラタケが声をかけると、ああ、と生気のない目をしたエトーは気の抜けた返事をした。
ムラタケは閉店時間までテラス席で待っていた。エトーに悩みがあるなら、それを聞いてやりたいと思った。パン屋のことを提案したのは彼だったし、それが原因でエトーが悩んでいるなら、責任の一端は自分にある気がした。遠くの山並みの向こうに太陽が沈んでいって、空気は薄い紫色にそまった。周辺に広がる畑や空き地の草むらから虫の声が響いてくると、パッと音がして、店の軒先のランプがついた。すぐに、小さな羽虫がランプに群がってくる。エトーが店の入り口の掛看板を裏返し、「本日は閉店しました」にした。
エトーは、二人分の紅茶と、売れ残ったクリームパンやバターロールをのせたトレーをもってやってきて、テラス席に腰かけた。ムラタケは改めてエトーの顔を見る。やはり憔悴している様子だ。夕暮れ時の闇にそのまま吸い込まれてしまいそうだった。「店の経営、うまくいってないのか?」ムラタケが尋ねると、「驚くほど順調だよ」とエトーは答える。「じゃあ、なんでそんなにやつれちまったんだよ。とてもジャムおじさんと同じ職業の奴とは思えない顔してるぜ。何か悩みがあるなら俺に話してくれ」とムラタケは言う。エトーは何か話そうとしたが、うまく言葉にならずに、そのまま黙り込んでしまった。
ムラタケは溜息をつくと、テーブルの上の、こんがりとしたつやのあるバターロールを手に取り、一口かじり、うまそうに飲み込む。そのままの勢いで、三口ですべて食べきり、紅茶を流し込むと、「なあ、俺はお前に感謝してるんだ」と言う。「お前には高校の時、古文の宿題を毎回写させてもらったし、ジョジョだって全巻貸してもらった。今の俺があるのはお前のおかげだよ」ムラタケはそう宣言する。「だからお前の力になりたい。それに、俺がパン屋なんかやれって言ったせいでお前が苦しんでるなら、俺も気分が悪い。だから、訳を話してくれよ」と続け、トレーの上のバターロールをもう一つ手に取ると、エトーの方へ差し出す。
差し出されたパンを受け取ったエトーは、しばらくそれをじっと見つめた後、少しちぎって口に入れる。そして、一口、もう一口と口に運ぶ。エトーの目には涙がにじんでいた。もはや、一人で秘密を抱え込むのは限界だった。ムラタケと同じように紅茶を飲み干すと、エトーはぽつりぽつりと話し出した。幼いころ、祖母からパン作りを教わり、純粋な気持ちでパン作りにのめり込んだこと。リウタの事件と、それをきっかけに秘密の快楽を覚えたこと。その後、そうやって快楽を得ることがパン作りの目的となっていったこと。
「でも、パン屋をはじめて、状況が変わったんだ」とエトーは言う。パン屋をはじめてから、会社勤めの時よりもはるかに多くの人が彼のパンを食べていた。でも、エトーはその人たちに憎しみなど感じなかった。店にくるのはよい客ばかりで、彼のパンをほめる客はいても、けなす客はいなかった。店でトラブルを起こす客も皆無で、雇ったアルバイトも、率先して仕事をするいい人ばかりだった。すべてが順調で、順調に時間が流れていく一方で、彼の快楽が満たされることはなかった。他人への憎しみを込めて生地をこねたい、それをそいつに食わせたい、という屈折した欲望が、開店したばかりの清潔で甘い匂いのするパン屋の中で膨れ上がり、はち切れそうになっていた。抑え込むのはもはや限界だった。
すべてを洗いざらい打ち明けたエトーは、「こんな変な話して、迷惑だよな」と言って、ムラタケの顔色を伺う。この秘密を他人に話すのはこれがはじめてだった。ムラタケはというと、友人の急な告白を受け止めきれずに、ぽかんと間の抜けた表情でエトーを見ていた。彼はしばらくテラス席の木製テーブルを指でトントンと叩いた後、「別に悪いことじゃない、人に迷惑もかけてないし」とつぶやき、「でも」と言って一呼吸おき、語気を強める。「でも、お前のおばあちゃんはどう思うんだよ。おばあちゃんがこんなこと知ったら、悲しむんじゃないのかよ」ムラタケは自分の祖母のことを考えていた。彼の祖母は彼が生まれてすぐに癌で死んだ。だからほとんど思い出はなかったけれど。だからこそ、ムラタケはエトーとその祖母のパン作りを通したつながりをうらやましく感じたし、それを冒涜するようなエトーの行為に腹が立った。エトーもそれをわかってくれると思った。
エトーはわかってくれなかった。テーブルの向こうの暗がりの中で、エトーの目は、先ほどまでとは打って変わって、なぜか狂気を帯びたように輝いて、まっすぐにムラタケを見ていた。その急変ぶりに驚いたムラタケが「どうした」と恐る恐る尋ねると、エトーはすぐさま「もっと罵ってくれ」と叫ぶ。「はやく罵ってくれ、殴ってくれてもいい」エトーは今まで見たこともないくらい興奮していた。「お前、俺のこと無理やり憎んで、パン作りの種にするつもりだな!」そう察したムラタケは、テーブルにバンと両手をついて立ち上がると「お前がそんな気持ちで焼いたパン、俺は絶対食わないからな!」と怒鳴り、くるりと背を向けてエトーの前から立ち去ろうとする。そして、二、三歩進むと、振り向いてもどってきて、テーブルの上の余ったクリームパンやバターロールを鷲掴みにしてそのままリュックに詰め込み、何も言わずに足早に去っていった。
その日、エトーはベッドに入ってすぐに眠りに落ちて、ぐっすりと眠って、早朝に目が醒めた。顔を洗って、いつものように厨房に入り、生地をこねはじめる。昨日の出来事が頭の中によみがえってくる。ムラタケに怒鳴られたこと。ムラタケに自分の快楽を否定されたこと。心の中でムラタケに対する憎しみが生まれ、種火から焚火をおこすように、その小さな憎しみが燃え上がるように仕向ける。そして、怒りをぶつけるように生地をこねる。何度も何度も生地を叩きつける。エトーの頬を一筋の涙がつたう。祖母のことを思い出していた。はじめはこんなんじゃなかった。ムラタケの言う通り、祖母が今の彼を見たら、どう思うだろう。悲しむに違いない。それを認めたくなくて、無理やりムラタケのことを憎んでいるだけだ。本当は、はじめから彼に対する憎しみなどなかった。本当は、自分が憎かった。祖母から教わったパン作りを、怒りと快楽のはけ口にしていた自分自身に腹が立っていた。思わず、両腕の筋肉が震え、生地をこねる手に再び力がこもる。売り物を作る気にはならなかった。感情のままに生地をこね、叩きつけ、気づくとちぎりパンの形になっていた。エトーはそれをオーブンに入れて、焼きあがるのをじっと見守る。焼きあがったら、紅茶を淹れて自分で食べようと思った。このパンは、あの幼い頃の日曜日に彼を連れ戻してくれるかもしれない。あるいは、これまでにない快楽を彼に与えてくれるかもしれない。気になっても最後までオーブンを開けてはいけない。温度が下がると、うまく焼きあがらないから。
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