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トキ消費が「ステレオタイプ」の意味を真逆にさせる。

近所の人が白黒テレビに群がり、力道山のプロレス技に興奮したあの時代から数十年、どんどんと生活を豊かにする商品が生まれていった。

それは、まさに1を10にする勢いで、新しいデザイン、新しい機能、新しいコンセプトが次々に発明されていく。テレビは白黒からカラーになり、録画機能が付き、2画面表示ができるようになる。車もあらゆる車種が生まれ、スカイラインやロードスターのようなスポーツカーに人々は憧れた。

物質的な豊かさは、やがて「差別化」という競争意識を芽生えさせる。そうやって人々は「何を持つか」でステータスを味わった。

ステレオタイプという言葉はそんな最中に生まれた言葉だ。

ステレオタイプは「こうあるべき」という心理がとても強く働く。「お金持ちなら六本木に住み、バレンチノのコートを着て、フェラーリに乗るべきだ」というような、物質的な豊かさをベースとした理想のお金持ち像を描く。共通の理想が既成概念として多くの人々の意識に植え付くことで、そこを目指そう!という競争意識が生まれる。このイメージを強く抱いているひとが、いわゆるステレオタイプというものになる。

しかし、ご存知の通り21世紀に入ると、物質的な豊かさを追求した結果、商品の種類は膨大に溢れかえり、やがて商品の価値・希少性は薄まっていった。また、ネット環境とスマートフォンの普及によって、たくさんの情報を仕入れることができる社会になった。この「情報量の爆発」と「商品の生産過多」の掛け算によって、人々はそれらを追い求めることに疲弊するようになる。

もうこれだけたくさんあると、何がいいのかわからない!

こんな叫びが聞こえてきそうなほどだ。そこで、人々の心理は徐々に「精神世界」へと入っていく。自分はいったい何を買いたいんだろう。それを買う目的は何なんだろう。自分はいったい、どんな生き方を望んでるんだろう。自分は何をしている時が楽しいのだろう。物質的な豊かさは、こうした人間としてのアイディンティティを再構築させる役目を追うことになった。

そして、やがてモノ消費は、コト消費へと変わっていく。コンサートに言ったり、旅やキャンプに出かけたり、習い事をしたり。モノを充実させるのではなく、体験を充実させるということにウェイトを置き始めた。 

しかし、この時点でもまだ「ステレオタイプ」は残っている。今度は体験におけるステレオタイプという概念が生まれるのだ。キャンプいくなら軽井沢だよね、とか、旅にいくならヨーロッパだよね、とか、習い事するならヨガだよね、とか。こういう体験をしているとかっこいいんだよねという価値観は、まさにステレオタイプそのものである。

特に、Instagramなどでインスタ映えスポットにいって写真をとったり、タピオカを飲んでみたりと、SNSのなかではそうしたステレオタイプ的な行動はたくさん見受けられる。要は、昔に比べてステレオタイプの理想を標榜する種類が多角化しただけであって、その概念自体は何ら変わっていない。

しかし、それがトキ消費という新しい価値観の時代に入ってくると、その景色は一変する

トキ消費とは、再現性がなく、その瞬間しか味わえない体験を味わおうとするもので、「レアな思い出」を作ったり「その場限りで盛り上がる」といった体験を指す。

トキ消費の代名詞として、よく渋谷のハロウィンの仮装パーティが例に上がるが、僕は一概にこれはちょっと違うと感じている。たしかにその瞬間だけ、というのは間違いないが、それは単にハロウィンというイベントが1日限定だから、という外的要因に過ぎない。

トキ消費の本質は「内在性」だ。「楽しそうだから行こう」というのは、ステレオタイプな行動であって、ハロウィンパーティはその最たる例だ。これは完全にコト消費のひとつである。そうではなく、その体験を通じて、心を豊かにしたいという発想のもと生まれる心理が、トキ消費である。そもそもミレニアル世代以降は、人とは違う生き方をしたいという心理が強い。人がやるからやりたいのではなく、自分が楽しいと思えることをする。そこに「非再現性」という要素が混ざることで、「レアな思い出」を作ることができる。

もちろん、人は皆少なからずステレオタイプな要素はあるし、モノ消費もコト消費もやる。結局は、いろんな消費スタイルを自分の中に介在させ、巡っている。しかし昔は、トキ消費をしたくても、コストがかかったり情報が入ってこなかったりしたことで、相対的にいまよりもそのハードルが高かったのだ。ここは重要なポイントである。

昔から人の心理は変わっていない。そこに情報と物質という概念が入ってきたことで、その総量が増えていくフェーズでは外在に目が向けられ、ピークをすぎると内在に目が向けられる、ということだ。

現代においては、内在性の傾向が強い。そのため、ステレオタイプという言葉は、目指すべきものではなく、対立するものとして捉えられる。「こうありたい」から、「こうなりたくない」という真逆の価値観を持つようになっているのだ。


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