生まれてきた子がLGBTQ+だったら /『息子のボーイフレンド』 読書感想文
子供がお腹にいた時から、考えていたことがある。
「生まれてきた子が、LGBTQ+だったら。
私は、受け入れられるのだろうか。
これから10年かけて、心の準備をしていかなくちゃいけない」
こんな母親は、稀なのかもしれない。
私には昔、セクシュアルマイノリティと思われる友人がいた。彼女は、カミングアウトしなかった。そこにはカミングアウト出来ない空気があったのだ。仲間内で噂になっていた。きっと勘が良かったから、彼女自身その空気を敏感に感じていただろう。彼女はいつの間にか、私たちの前から姿を消した。
話を聞いてあげるべきだったんじゃないのか。たびたび二人で出掛けた近しい友人でありながら、噂話に立ち会い、曖昧な笑みを浮かべたこともあった。
後悔が今も残っている。
その過去の体験から、わが子がLGBTQ+ならば、今度こそ、きちんと話を聞いて、受け入れたい。異性との恋愛と変わらず、接してあげたい。そう思っている。
けれど、そんなに簡単なことではない。
これまで友人や家族に、LGBTQ+であるとカミングアウトしてくれた人はいない。カミングアウトしてくれた子に対する、自分の心の動きが全く予想できない。
不安を抱える中で、私は『息子のボーイフレンド』という本を手に取った。背景には、将来の「予習」のようなものができるのでは、と期待があったと思う。
◆秋吉理香子『息子のボーイフレンド』
この本は、ゲイのカップル、両親、母親の親友それぞれの視点から語られている。ゲイの本人が主人公の小説は数あれど、この本のように、その家族や周りの人々を、正面から主人公にした小説は少ないのではと思う。
けれど、それが私が読みたい視点だった。指南書が欲しかった訳では無い。とにかく、第一歩なのだ。少しでも触れて、感じてみたかった。
その点、この本は正解だった。繊細なテーマを扱いながら、ホームコメディという形をとった軽やかな文章。スルスルと読むことができた。
この本は、ある家族がその事実を受け入れていく物語だ。
世界を揺るがすような大きな事件は何も起こらない。はたから見れば小さな、けれど、関わる本人たちにとっては、人生をかけた大きな物語だ。
同性愛者の息子聖将が、母親の莉緒に自身のセクシュアリティをカミングアウトするところから物語が始まる。
莉緒はまさに現代の母親。
反抗期で口を聞かなくなった息子に
と、ドラマや雑誌に影響されて、ハッタリをかましてしまうくらいの。
ゲイだと打ち明けた息子に「彼氏を家に呼んでもいいよ」と物わかりのいい母を演じ、後から本心じゃなかったと、後悔してしまうくらいの。
この気持ち、痛いほどわかる。
インターネットにリベラルな情報が溢れる現代。私たちは、「こうあるべき」な文章をたくさん読んで、それが自分の価値観と一致していると思い込んでいる。だから、人はいくらでも「こうあるべき」を自分の意見のように、口にする。
例えば、「同性愛者だって同じ人間だ。受け入れられて然るべきだ」と。
けれど、現実世界の人間関係や価値観は、ネットの世界ほど追いついていない。自分の、本当の心の奥底、だってそうだ。
セクシュアルではないが、ジェンダーについて、私自身、思い知った出来事がある。頭でこうあるべきと思っていたジェンダー観と、口をついて出た「男の子なのに。」という言葉の落差にショックを受けたことがある。
母親の莉緒も、父親の稲男も、セクシュアルマイノリティについてあるべき姿を“理解”している。過去の体験や、会社での活動から、異性愛者の中でもずっと理解のある方だっただろう。
しかし、自分の息子、となると別なのだ。
マジョリティに属していた方が生きやすい。その方がきっと幸せだ。"普通"に幸せになった方がいいに決まっている。だから、我が子はマジョリティ側に、置いておきたい。そんな気持ちが働いてしまう。
けれど、その願いは、間違っている。本人が求めている幸せはマジョリティに属することでは無い。本人の幸せも、“普通”も、本人が決めること。家族には、その意思を受け入れて寄り添ってほしい、と本人なら思うはずだ。
その2つの価値観の間を、ユラユラ揺れてしまう。
どっちつかず。自身で、そう否定的に考えてしまいがちになる。家族なのに、なぜ寄り添い続けることが出来ないんだと、自分を深く責めてしまうこともあると思う。
けれど、この本は、そんな家族も含めて、あたたかな景色で包んで、応援してくれる。
ユラユラ揺れて悩みながら、毎日を積み重ねていったっていいんだと、肯定してくれる。
そう感じた。
それでいいじゃないか。と。
最後のシーンは、父親の言葉の力強さと、包み込む景色の鮮やかさの両方に、心動かされて泣いてしまった。
私も、その時の気持ちに正直でいてもいいのかな。揺れながらも、毎日を積み重ねていけばいいのかな。
そしてそれが、いつのまにか、後から振り返った時に、良い方向に向かっていれば。
最後に「やったね」と子供たちと手を取って笑い合えれば、素敵だな。そう思う。