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『トリコロールⅠ』 第1章 邂逅編・上

À la recherche du temps perdu.

——『失われた時を求めて』マルセル・プルースト


Prologue  『水中花の明晰夢』

 
 ——それは、まるで水中花のような夢だった。

 新学期に備え、早めに床に就いた昨夜。そこで見た不可解な夢が、すべての異変の始まりであったことを、僕は今になって悟っていた。

 ソファに腰を深く沈め、混乱した頭を抱える。現実から目を背けるように——あるいは何かを求めるように、僕は記憶に焼きついた夢の風景を思い浮かべた。

 ——そこは一面に広がる花畑の中。身体と精神が乖離してしまったような、不思議な浮遊感を思い出す。青、白、赤——畝に沿って咲き誇る花々は、まるで隙間なく敷かれた絨毯のようだった。そして——

 ——その穏やかな日溜まりの中、3つの人影が僕を囲むように佇んでいた。

 正面に座るのは、まるで花弁の中で育まれたように幼気な少女。風に靡く山吹色の髪と、鈴を張ったような丸い瞳——サンザシの花を思わせる彼女は、どこか掴みどころのない茫洋とした雰囲気を纏っていた。

 左手に立つのは、漆黒のドレスに身を包んだ令嬢。それは喪服か、あるいは薄暗い森の奥底のよう——彼女の瞳は知性の色を覗かせていていたが、その冷たい表情には苛烈な才気が潜んでいるようにも見えた。

 そして右手に立つのは、その背に白い翼を持った礼服の青年。

 ——彼は、他の2人とは明らかに様子が違った。その特徴的な容姿からも、彼が僕の身に起こった異変と関係していることは明らかだった。そして——

 ——青年はふわりと宙を舞って、僕の眼前に降り立った。秀麗に輝く青色——その瞳に魅入られた僕は、彼に近づくことはおろか、声をかけることすらできなかった。

 そんな僕を、青年は慈悲深い天使のように翼でそっと包み込んだ。彼の涼しげな顔立ちは、どこか深い情を湛えているようにも見えた。

『初めまして。僕たちの——』

 ——そんな声が聞こえた刹那、僕の胸元から急に青白い光が放たれた。突然の発光は、瞬く間に僕の視界を奪い——

 ——不可解な夢はそこで終わった。ひどく寝汗をかいていたのを覚えている。

「……やっぱり、異変の前触れだったのか?」

 静寂に満ちたリビングで、僕はそう口にした。しかし、これ以上の手がかりを夢の記憶から見つけることは難しいように思える。

 ——僕たちの身に、いったい何が起こったのだろう。ゆっくりと顔を上げると、まるで三日月のような美しい横顔——変わるはずのない光景が目に映った。

 ——はぁ、と僕は何度目かのため息をつく。

 思わず視線を逸らすと、そこにはバイト先から借りてきた『本』があった。僕はもう一度頭を抱え、長く伸びた前髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。

「少し、落ち着こう……」

 しばしの間があって、僕は自分に言い聞かせるようにそう呟く。

 ——そもそも僕が向かうべきだったのは、自宅ではなく病院だったのだ。冷静さを欠いていたせいで、彼女にこの奇妙な状況を弁明しなければならない。

「本当に、何が起きてるんだよ……」

 恐怖、後悔、そして微かな苛立ち——さまざまな感情が滲んだ声で、僕は吐き捨てるようにそう零した。

 ——時計は既に21時を回っている。母さんが夜勤で家にいないのが、不幸中の幸いだった。

 ——あまりに非現実的な事態の連続。僕はしばらく考えを巡らせていたが、結局異変のことは何もわかりそうにない。

 ——彼女なら、何か知っているかもしれない。

 そう思った僕はとにかく、この状況をうまく取り繕う言葉を必死に探すことにした。

 しかし、そうしているうちにだんだんと睡魔が襲ってくる。鉛のように重い僕の体は、睡眠を切実に欲しているようだ。

 もちろん、ここで無防備に眠ってしまうのは危険だったが——

「——少し、だけ……」

 微睡みの中、僕は消え入りそうな声でそう漏らし、再びソファに身を預けた。

 ——彼はそのまま、深い眠りに落ちてしまった。

 その向かいに横たわる少女——人形のように端正な顔立ちをした彼女も、穏やかな表情のまま眠っている。

 ——2人が目を覚ますのは、ちょうど日付が変わるころだった。


Episode.01 『白鳥紳士と幽霊少女』


 枕元に置いていた懐中時計が、ちょうど朝の8時を示している。不可解な夢から目を覚ました僕は、慌ててバスルームへと向かった。

 パジャマが湿るほど寝汗をかいていたが、シャワーを浴びる時間はない。僕はその憂鬱を紛らわすようにため息をついて、寝ぼけ眼で歯を磨き始めた。

 ふと、あの夢の余韻——幻想的な花畑と、三者三様の人影が頭をよぎる。普段ならすぐに忘れてしまうはずの夢の風景は、僕の記憶に鮮明に残っていた。

 水で顔を洗い、鏡の中の自分と相対する。長い前髪が寝癖でぴょこんとはねていた。

 ——僕、丸谷カイトは今日から高校2年生になる。

 衣装棚から制服を取り出し、久しぶりに袖を通す。母さんはもう仕事に出てしまったようで、リビングには誰もいなかった。

 ——何も変わらない、いつも通りの朝だった。

 あくびをしながらトーストを焼き、コーヒーを淹れた。朝食を済ませた僕は、さっさと出かける準備をする。枕元の懐中時計も、忘れずにブレザーの胸ポケットへと入れた。

「……行ってきます」

 そう言って、僕は誰もいない家を後にした。もちろん返事は返ってこないが、すっかり習慣になってしまっているのだ。

 ——放課後は、バイトの予定だったな。

 新学期に伴う高揚感を持ち合わせていない僕は、重い足取りで学校へと向かう。

 ——そんな僕を慰めるように、散りかけの桜がひらひらと風に舞っていた。

「では、ホームルームを始めますね。まずは委員会を決めますよ!」

 始業式を終えた教室に、新しく担任になった若い国語教師——紅林先生の声が響く。教室内がにわかに色めき立った。

「積極的に手を挙げてくださいねー」

 先生は間伸びした声でそう続けた。それを受けて、教室のあちこちから話し声が聞こえてくる。

「——俺、立候補するかも」

「……お前が委員会なんて珍しいな」

「いやいや。そりゃ、もちろん——」

「——相楽さん狙いだよ」と、後ろの席の男子生徒が小さな声で続けた。

 おそらく去年も同じクラスか、あるいは同じ部活なのだろう。親しげな彼らの視線の先には、1人の女子生徒がいた。

 ——その端正な横顔を飾るのは、美しくも儚げな表情だった。

 相楽セシル——かなりの有名人で、さすがの僕も見知っていた。

 その浮世離れした容姿は、新しいクラスでもひときわ目を引いている。フランス人の母親譲りだという金髪碧眼が、窓際の席でキラキラと輝いて見えた。

 ただ、と後ろの席の彼が続ける。

「……相楽は男子を避けているらしいが」

「そうそう。ほんと高嶺の花って感じだよな」

「そういえば、野球部のエースが告白したって件は——」

「——いや、あいつもダメだったらしいぜ」

 どこか浮き足だった視線の多くが、相楽さんへと向けられていることに気がつく。後ろの彼を含め、何人ものクラスメイトが彼女と接点を持ちたいと思っているようだ。

 しかし、当の本人は、どこか物憂げな様子で窓の外を眺めていた。

 黒板に全ての委員会を書き揃えた先生が、教室全体に再び呼びかける。

「——じゃあまず、所属したい委員会がある人はいますか?」

 僕が手を挙げなくても、枠は少しずつ埋まっていくものだ。そんなどこかやりきれない気持ちを抱えながらも、僕は読みかけの文庫本——オー・ヘンリーの短編集をこっそりと開いた。

 ——今年も目立たず、できるだけ1人で過ごそう。

 そう思いながら、ふと顔を上げる。新しいクラスに知り合いはほとんどいなかった。いや、いなくて当然だった。

「では美化委員は、青山さんで決定ですね!」

 風紀、保健、そして美化——委員会は順調に決まっている様子だった。後ろの席の彼らの声が、再び聞こえてくる。

「……おい、手を挙げそうにないぞ」

「ちっ、目論見が外れたかぁ……」

 相楽さんは相変わらず、退屈そうに頬杖をついていた。そんな何気ない姿勢の彼女ですら、芸術家による畢生の彫像のように見える。僕は思わず本に視線を戻した。

 少し間があって、先生が教室中を見渡しながらこう言った。

「残りは図書委員と体育委員、それから学級委員が残っていますが——」

 どれも仕事が多く、不人気の委員会だと聞いている。そう思った矢先、意外にも誰かがスッと手を挙げた。

「——先生。体育委員は俺で」

 一瞬、教室が水を打ったように静まり返った。その威圧感のある声は、やけに眼光の鋭い男子生徒のものだった。

「あっ、朝比奈くん……!?」

 困惑した様子の先生がそう声を漏らす。彼女は確認するようにこう続けた。

「えっと、体育委員、やってくれるんですか?」

「……まあ、誰も希望してないんで」

 彼はぶっきらぼうな調子で、不敵に笑いながらそう答えた。

 ——ワックスで立ち上げた茶髪から、シルバーのピアスが覗いている。

 朝比奈トーマ——実は新しいクラスでは数少ない、僕の知り合いのひとりだった。

 トーマとは家が隣同士——いわゆる幼馴染だ。しかし高校生になった途端、彼は陽気に振る舞うようになった一方で、素行不良が目立つようになった。度重なる喧嘩が原因で、部活も辞めてしまったらしい。

 そういった経緯で目をつけられているため、先生もトーマの立候補に戸惑いを隠せないのだろう。しかし、そんな彼女の様子に構わず、彼は急に後ろを振り向いた。

「先生、じゃあ——」

 ほんの一瞬、トーマと目が合った。彼は——

「——図書委員はアイツで」

 なぜか僕のことを指差していた。突然のことに驚いた僕は、思わず読んでいた本を落としてしまった。再び静まり返った教室にその音が響き、クラス中の視線が僕に集中する。

「あっ、あはは……」

 咄嗟に本を拾い上げた僕は、誤魔化すようにそう笑った。しかし、居心地は悪くなる一方だった。迫り来る気まずさに耐えかねた僕は、結局こう言わざるを得なかった。

「……なら、図書委員で」

「そ、そうですか! えっと、他に図書委員を希望する人は——」

 我に返った様子の先生は、どこか心配そうな表情を浮かべつつも、元の間伸びした口調でそう尋ねた。しかし希望者はおらず、トーマは体育委員に、僕は図書委員になった。

 小さくため息をついて、本を机の中へ隠すように入れる。トーマの突然の行動に、僕はひどく動揺してしまった。というのも——

 俯きがちにトーマの様子を窺いながら、僕は少し昔のことを思い出した。

 ——そう。僕たちは『あの一件』以来、ずっと疎遠になっているのだ。

 一方、トーマは僕に一瞥をくれることもなく、周囲の友人たちと何やら話し込んでいるようだった。彼があんな行動に出た理由に、僕は見当もつかない。

 もしかするとトーマは、いまだに僕に負い目を、あるいは恨みを持っているのかもしれない。そう思うと、心が乾くような感覚に苛まれた。その時だった。

「では、相楽さん。よろしくお願いしますね!」

 先生の言葉で、教室中から拍手が湧き上がる。思わず顔を上げると、意外なことに相楽さんが学級委員になっていた。どうやら、友人からの推薦を断れなかったらしい。

 ——はにかむように笑う彼女の、どこか繊細な面持ちが印象的だった。

「——それでは皆さん、また明日!」

 先生はそう言って教室を後にした。ホームルームが終わるや否や、トーマは足早に教室から出ていってしまった。

 ——直接、彼の真意を尋ねてみよう。そう思い、少し手荒にリュックサックを背負ったその時だった。

「——丸谷くん、だっけ?」

 そう声をかけられ、後ろを振り返る。話しかけてきたのは、後ろの席に座っていた男子生徒だった。僕が小さく頷くと、彼はこう続けた。

「実はさ、この後みんなでカラオケに行くんだけど……」

「よかったら来ない?」と、彼が爽やかな笑顔でそう尋ねる。周囲には何人かのクラスメイトが集まっていた。彼らはこそこそと喋りながら、僕に好奇の視線を向けている。

 少し間があって、僕はこう答えた。

「……ごめん、このあとバイトなんだよね」

 そう伝えると、彼は意外そうな顔をした。誘いを断る方便だと思われたのかもしれない。しかしすぐにグッと親指を立てて、彼は人の良さそうな表情を浮かべて言った。

「そっか、じゃあバイト頑張ってな!」

「……ありがとう。それじゃあ」

 そう断って、僕は教室を出た。急いで昇降口へと向かったが、もうトーマは見当たらなかった。彼と話すのは、明日までお預けのようだ。

 大きく息を吐いて、靴を履き替える。一瞬、クラスメイトの様子が頭をよぎり、なぜかチクリと胸が痛んだ。トーマのこともあって、中学時代のことを思い出したからだろう。

「これで、良かったはずだ……」

 自分を戒めるように、小さな声でそんな言葉を零す。花壇に並ぶカラフルなチューリップを目で追いながら、僕は南町商店街——バイト先の喫茶店へと急いだ。

 ——西の空は、どんよりとした鈍色の雲に覆われている。

 今日のバイトはランチタイムからとなった。バイト先——『ナナ』は、老夫婦が2人で切り盛りする小さな喫茶店である。エプロンに着替えた僕は、洗い終わった食器を片付けていた。

「——お兄さん、注文いいかな?」

 コーヒーカップを拭いていると、落ち着いた口調でそう呼びかけられた。小さく手を挙げているのは、奥のカウンター席に座るビジネスマン——常連客の男性だった。

「はい、お伺いいたします」

「ナポリタンをひとつ。それから——」

 店長が豆を挽いているためか、店内は芳醇なフレグランスで満ちていた。彼はその香りを確かめるように目を伏せた後、少し間を置いてこう続けた。

「——食後に、いつものブレンドを頼むよ」

「はい、かしこまりました」

「少々お待ちください」と一礼し、店長の奥さんに注文を伝える。

「奥さん。ナポリタンがひとつ、食後にコーヒーです」

「わかったわ」と、キッチンで調理をしていた奥さんが振り向いて言った。フライパンで玉ねぎを炒めながら、彼女はこう続ける。

「あ、カイトくん。このカフェラテもおねがい」

「了解です。奥のボックス席ですよね?」

 ええ、と奥さんが頷いたのを確かめ、僕は奥のボックス席に向かった。両隣を背の高い本棚——店長の蔵書に囲まれたそこに座るのは、だいたいが常連客である。

「失礼いたします」と、僕はシナモンシュガーたっぷりのカフェラテを、そっとテーブルの上に置いた。案の定、常連客の若い女性が読書に耽っている。

「お待たせいたしました。こちらカフェラテです」

「……あっ、ありがとうございます」

 面識はないが、僕と同じ聖ジェーン学園の高校生だろう。亜麻色の長い髪に、左目を隠す医療用眼帯——個性的な容姿の彼女は、今日もラブクラフト全集を読んでいた。

 その後、僕はしばらく本棚を整理していた。巻数の入れ替わりや、倒れている本を元に戻す。どれもコーヒーのアロマが染み付いているような、深い年季を湛えていた。

 ——いったい誰が読んでいるのだろう。驚くべきことに、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の3巻が抜けていた。そんなことに気を取られてしまい、整理は遅々として進まない。すると——

 ——カラン、と真鍮のドアベルが鳴った。僕は片付けを中断し、来客に応対する。

「いらっしゃいませ。こちらの席にどうぞ」

 僕は40代くらいの夫婦を、手前のボックス席に案内した。程なくして、彼らが注文したのはマンデリン——ハーブの香りを思わせる、上品でコクのある銘柄だった。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 注文を伝えるため、僕はキッチンへと戻った。奥のカウンター席の男性が、美味しそうにナポリタンを食べている。

 ——そういえば昼食、まだだったな。急に空腹を感じた僕は、ふと時計の方に視線を向けた。まもなく13時——アンティークの柱時計は、ゆるやかに時を刻んでいる。

 ランチタイムも終わり、店は一段落していた。

「カイトくん、お疲れ様」

「お昼、まだでしょ?」と続けて、奥さんはあのナポリタンを出してくれた。ケチャップの香りが食欲をそそる賄い料理を前にして、僕は瞳を輝かせながら答える。

「はい! いつもありがとうございます」

「いいのよ〜。こちらこそ、今日は本当にありがとうね」

 奥さんは微笑みながらそう言った。今日は店長夫婦のお孫さんが手伝いに来る予定だったのだが、急な予定が入ってしまったらしい。そこで午後から休みだった僕が、代わりを務めることになったのだ。

「いえいえ。いつでも呼んでもらって大丈夫ですよ」

「そう? もう歳だから、正直助かるわ」

 キッチンの隅でナポリタンに舌鼓を打ちながら、奥さんとの会話を弾ませる。彼女は肩を摩りながらも、嬉しそうに笑っていた。

 ——店長夫婦は、実は僕の爺さんの知り合いなのだ。彼は僕が10歳の時に癌で亡くなってしまったが、生前は『ナナ』の常連だったらしい。そんな縁があって、僕はバイトとして雇用されていた。

「……そういえば、店長はどちらに?」

「たぶん、一服じゃないかしら」

 奥さんはそう言い、呆れたような表情でタバコを吸う真似をした。僕は少し苦笑いを浮かべて、こう答える。

「あはは……なかなか辞められないらしいですからね」

「まったく、カイトくんからも言ってあげてちょうだいな」

「店長もお年ですし、ちょっと心配ですよねー」

 そんなことを話していると、ドアベルが心地良い音で来客を告げた。

「あ、行ってきます」

 奥さんにそう断って、キッチンを出る。来客は1人——どうやら学生のようだ。

「いらっしゃいませ」

 そう声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。聖ジェーンの制服に、肩口で切り揃えた美しいブロンド。僕は思わず目を見開いた。そう、それは——

 ——相楽セシル、その人だった。吸い込まれそうな碧色の瞳と、僕の視線が交錯する。彼女も僕がクラスメイトだと気づいた様子であった。

「……お、お好きな席へどうぞ」

 僕がそう言うと、相楽さんは小さく頷いて真ん中のボックス席に座った。動揺を鎮めるように深呼吸をして、彼女にお冷を持っていく。

「——注文がお決まりになりましたら、お申し付けください」

 相楽さんはメニューを眺めながら、何も言わずにまた頷いた。麦畑のようにサラサラと揺れるショートボブと、人形のように整った顔立ち。バイト中にも関わらず、僕は彼女の姿に魅入られていた。

 その一方で、相楽さんは貼り付けたように無表情だった。しばらくして、彼女から呼ばれる。僕は平静を装いながら、彼女からの注文を聞いた。

「このケーキセットをひとつ。飲み物は紅茶……アールグレイでお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 一礼して、足早にキッチンへと戻る。ほっと胸を撫で下ろした僕に、奥さんが小声で話しかけてきた。

「すごく綺麗な子ね……! カイトくん、もしかして知り合い?」

「……クラスメイトですね。まあ、学校の有名人ですよ」

「ふ〜ん」と、何やら意味ありげに笑う奥さんは、囁くようにこう続けた。

「……他にお客さんもいないし、話しかけてみたら?」

「いやいや、勘弁してくださいよ……」

「えぇ〜、仲良くなるチャンスじゃない!」

 すっかり色めき立ってしまった奥さんの言葉に、僕は少し気恥ずかしくなっていた。ちょうど、その時——

「——お、カイト」

 白の交ざった髭に触れながら、店長がキッチンに戻ってきた。深煎りしたコーヒーのように渋みのある声で、彼はこう続けた。

「……これ、お前のか?」

 店長の手の中には、1冊の洋書があった。題名は『Du côté de chez Swann』——サイズは文庫本とそう変わらないが、ヴィンテージ風の立派な革の装丁が施されている。

「……いえ、違いますけど——」

 そうは言いつつも、なぜか僕はその本から目が離せなくなっていた。本をじっと見つめたままの僕に代わって、奥さんが店長に尋ねる。

「あなた、一服してたんじゃないの?」

「違う」と不機嫌そうに首を振りながら、店長はこう答えた。

「……奥の本棚を整理していたんだ。そしたら見慣れない本があったもんだから……客の忘れ物か、カイトのかと思ってだな」

 店長はそう言って、僕に本を寄越した。それを受け取った時、脳裏にどこか浮ついた、それでいて甘美な感覚が広がった。それは、まるで——

 ——あの夢のようだった。そう、僕はその感覚が、昨夜の不可解な夢と似ていることに気がついたのだ。直後、僕は自然とこう口にしていた。

「——店長、これ、少しお借りしてもいいですか?」

「……うーん。いや、別に構わんが」

「外国語だぞ」と店長に指摘され、僕は少し逡巡する。しかし、まるで焼き菓子に紅茶が染み込むように、僕の頭はその本を借りることしか考えられなくなっていた。

「はい、大丈夫です」

「……そうか。まあ、客の忘れ物だった時はちゃんと返してくれ」

「ありがとうございます!」

 ——不思議だな。まるで運命の出会いみたいだ。僕はしばらくの間、この本と夢との奇妙な縁に思いを馳せていた。すると——

「——さて、カイトくん。そろそろお仕事に戻りましょうか」

「……あ、すみません」

「——ほら、あなたも仕事に戻りなさい」

 奥さんの言葉で、僕は我に返る。店長もそう言われ、しぶしぶコーヒーを淹れ始めた。

「えっと、さっきのお客さまの注文ですが——」

 自分でもなぜかわからないほど、この本に心を惹かれている。そんな恋する乙女のように昂った気持ちを抑えながら、僕は奥さんに注文を伝えた。

 そうして彼は、紅茶ではなくコーヒーを彼女のもとへ運んだ——ありふれた、実に些細なオーダーミス。しかしこれが、日常を一変させるきっかけとなるのだった。

 ——彼はまだ、それを知る由もない。

「——お疲れ様でした。お先に失礼します」

 そう言って『ナナ』を後にする。懐中時計は19時を指そうとしていた。もう日は沈んでおり、反対に雨が降り始めている。それを見て、僕は少し考え込んだ。

 ——いや、歩いて帰ろう。自宅まではそれなりに距離があるが、僕は混んでいるバスが苦手だった。幸い雨は小降りであったし、何となく歩きたい気分だったのだ。

「……急ぐか」

 そう呟き、折り畳み傘をリュックサックから取り出す。代わりに店長から借りた本を、奥のほうへ丁重に押し込んだ。曇天とは裏腹に、僕の足取りは軽快だった。

 ——夕闇に包まれた街を、春雨が静かに濡らしている。

 南町商店街を抜け、県道を西に向かって進む。雨中の家路を急ぎながらも、僕は今日の出来事をゆっくりと思い返していた。

 まず、トーマと同じクラスになった。彼の突然の行動の真意を、今日は尋ねることができなかった。いや、もしかすると——

 ——僕は逃げたのかもしれない。疎遠になって久しいトーマよりも、彼の妹——マリちゃんに訊いたほうがいいだろう、と。そう思い至り、僕は少し自嘲気味に笑った。

 それから、相楽さんが『ナナ』に来たことも驚いた。だが、それ以上に——

 ——あの本との出会いは衝撃だった。もちろん、普段から本に強く心を惹かれることはあるが、今回はまるで違う。奇妙なつながりを感じた昨夜の夢の光景は、実はあの本の一節だったりするのかもしれない。

 ——だとしたら予知夢だな。そんな愚にもつかないことを考え、僕はまた少し笑った。傘を叩く雨粒の音が、だんだんと大きくなっている。

 まもなく、国道との大きな交差点へ差し掛かった。雨のせいか通行人や自転車はほとんどおらず、濡れたアスファルトの上を車が忙しなく走っている。

 大人しくバスに乗れば良かったと、僕は少し後悔した。勢いを増す雨からリュックサック——その中の本を庇うように、差していた傘を少し後ろに傾ける。

 その瞬間、先ほどまで塞がれていた視界にそれは映り込んだ。

 ——季節外れのサマーワンピースと、雨に濡れた絹のような長い髪。

 明らかに異様な姿をした少女が、傘も差さずに横断歩道で立ち尽くしていた。服も、髪も、そして露出した小さな肩も、すべてが不気味なほどに真っ白だった。

「……誰も、気づいていないのか?」

 どういうわけか、右左折した車は減速することすらなく、少女の前を次々に通り過ぎていく。あまりに不自然な光景を前に、僕は鼓動が急激に早まるのを感じた。

 身が竦み、恐ろしさが鎌首をもたげてくる。しかし、この交差点をまっすぐ進むのが、自宅までの最短経路なのだ。雨のせいもあって、僕は一刻も早く家に帰りたかった。

「……行こう」

 信号がチカチカと点滅し始めた。覚悟を決めた僕は、小走りで横断歩道を渡る。

 ——まるで地中海でバカンスを楽しんでいるような格好だ。その場違いさが、少女の薄気味悪さに拍車をかけている。目を逸らして彼女の横を通り過ぎた、その刹那——

「——Bonjour」

 雨音の中——流暢な異国の挨拶が、僕の耳朶をはっきりと打った。まるで糸に引っ張られるように、僕は自分の意思に反して少女の方を向いてしまった。

 少し間があって、俯いていた顔をゆっくりと上げた彼女は——

 ——その真っ赤な瞳から、だらだらと血を流していた。

 ぎゃあ、と情けない悲鳴を上げた僕は、差していた傘を手放した。体勢を崩し、何度か転びそうになりながら、もがくようにその場を離れる。

 ——幽霊だ!!

 そんな妄想に囚われた僕は、明後日の方向——国道を北向きに逃げ出してしまった。驚愕が、すぐに耐え難い恐怖へと変わっていく。

 長い橋をがむしゃらに駆け抜けながら、僕は恐る恐る——あるいは救いを求めるような気持ちで、ちらりと後ろの様子を窺った。しかし——

 ——くそッ、なんで——!?

 幽霊は僕を追ってきていた。宙に浮き、不気味に笑い、白い髪が蠢く——そしてあの血に染まった瞳に、彼女はしっかりと僕の背中を捉えていた。

「——うわあぁッ!!」

 心の奥底からの慟哭——降りしきる雨にも構わず、僕は必死に走り続けた。恐ろしい幽霊からの逃走が、気力と体力を激しく消耗させていく。

 制服はもうびしょ濡れで、すでに雨と汗の区別がつかなくなっていた。

 ——いったい、どういうことなんだ——!?

 どれだけ走っても、幽霊はずっと僕を追いかけてきた。途中、すれ違った通行人に助けを求めたが、彼らは僕に奇異の眼差しを向けるだけだった。それはつまり——

 ——幽霊は、僕にしか見えていないということだ。そのことに気がついた僕は、途方もない絶望感に襲われた。それでもなんとか彼女から逃れようと、国道を逸れ、入り組んだ住宅街へと逃げ込む。しかし——

「……うっ!」

 ——急に脇腹が差し込んだ。運動不足の体が限界を訴えているのだろう。悪寒が止まらず、ガチガチと震えて歯の根が合わない。その一方——

『——キヒッ! アハハッ!!』

 幽霊が耳を劈くような声で笑い、急激に僕へと迫ってきた。それはまるで手負いの獲物を弄び、追い詰める捕食者のようだった。

 なんで、こんな目に——そんな悪態を吐こうとしたが、息が上がってしまい声すら出せなかった。早鐘を打つ心臓が、口から飛び出してしまいそうだ。

 それでも、恐怖を糧に、体に鞭を打って裏路地を逃げ惑うが——

 ——しゅっ!!

 突如、耳元に乾いた音が響いた。直後、背後からの衝撃を感じた僕は、そのまま顔から地面に倒れ込んだ。

 ——右腕から、血が溢れている。遅れてきた激痛に、たまらず僕は絶叫を上げてのたうち回った。水溜りが、徐々に血溜まりへと変わっていく。一緒にリュックサックも切り裂かれたのか、周りに荷物が散乱していた。

「あぁ……ああぁっ……」

 痛みに喘ぐ僕を、幽霊はその赤い瞳で見下ろしていた。篠突く雨とともに、彼女の長い髪の毛先からポツポツと血が滴り落ちている。

 ——逃げなきゃ、殺される!!

 一方的な殺意に打ちひしがれ、嗚咽まじりの声を漏らす。僕はまるで翼をもがれた鳥のように、這いつくばったまま足をバタバタと空回りさせるが——

『——キヒヒッ!』

 まさに死刑宣告——幽霊の甲高い笑い声が、閑静な住宅街に鳴り渡った。

 血の涙が滂沱として溢れ、彼女の顔を悪鬼のように赤く染めている。僕は少しでも距離を取ろうと、痛みに耐えながら地面を惨めに腹這った。

「嫌だぁ……死にたく、ない……」

 泣き喚きながら、僕は助けを求めるように手を伸ばす。しかし——

『——アハハハッ!』

 出血のせいか意識がだんだんと遠のき、怪我を負った右腕の感覚がなくなっていた。そして雨に晒されて熱を失った体は、もうほとんど力が入らない。

 ——これは、駄目かもしれない。

 雨と涙で滲んだ視界へ、最後に飛び込んできたのは、髪を大鎌のように振りかぶった幽霊——白い死神の姿だった。

「……かあさん、ごめん……」

 ——これは何かの罰なのだろうか。かつての記憶、経験、そして悔悟——走馬灯のような情景が頭の中を駆け巡る。僕はすべてを諦めるように、無意識にそう呟いた。

 ——あまりに救いのない、理不尽な死。それが目前に迫った、その時——

 ——パタン

 伸び切っていた指先が触れたのか、雨音にまじって、何かが倒れるような音がした。

「——ううッ!?」

 次の瞬間、閉じかかっていた瞼が、突き刺すような光にこじ開けられた。ちょうど胸ポケットの中——懐中時計が青白い光を放っているように見えた。

 まるで浅い眠りを覚ます、清らかな旭光。そう、それは——

 ——あの夢と、同じ……!?

 僕はまた、昨夜の夢のことを思い出した。直後、倒れ込んでいた僕は、まるで蝶の羽化のように自然と仰け反りながら立ち上がった。濡れた前髪が跳ね、水滴を撒き散らす。

「……っ、なにが……?」

 息を吹き返した僕は、意識を取り戻したようにそう口走った。相対する幽霊も突然の発光に驚いたのか、距離を取って僕を警戒しているように見えた。

 ——今なら、逃げられるかもしれない。文字通り一筋の光明——不思議と生きる気力が湧いてきた僕は、咄嗟にそう思い辺りを見回した。

 ——体が軽く、右腕の痛みもない。

 何か普通ではないことが自分の身に起こったようだが、今はそんなことを気にしていられない。千載一遇のチャンスを得た僕は、ジリジリと少しずつ後退した。

『……キイィ……』

 幽霊が威嚇するように声を発する。睨み合いを続けながら、僕は近くの三叉路に差し迫っていた。

 ——あの角から、一気に走り出そう。しかし、そう思った瞬間——

「——は?」

 僕は、思わずそんな間の抜けた声を零してしまった。というのも、近くのカーブミラーに映った自分に、明らかな異変が起こっていたからだ。

 ——本当に、いったい何が起こったというのだろう。臨死体験のせいで、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。なぜか、僕の背中から——

 ——巨大な、白い翼が生えているのだ。

 幽霊と対峙しているにも関わらず、僕は呆気にとられてしまっていた。背中から生えている、白鳥のような一対の翼——カーブミラーに映るシルエットは、あの夢に出てきた礼服の青年のことを思い出させた。

 ——どうやら、幻覚ではないらしい。

 背中に手を伸ばすと、そこには確かな感触——羽毛に覆われた翼が存在していた。つまり僕の背中には、本当に翼が生えているということだ。非現実的な事態の連続に、つい呆然としてしまう。その瞬間——

『——キエエェェッ!!』

 戸惑っていた僕に向かって、幽霊が奇声をあげて突進してきた。彼女はそのあどけない顔を般若のように歪ませ、目尻からは血涙を迸らせている。

 ひぃっ、と僕は短い悲鳴を上げた。そして尻もちをつくような体勢で、慌てて後ろへと跳んで逃げようとする。しかし——

 ——まずいっ!! しまッ——

 一瞬で、僕は咄嗟の反応を後悔した。直進してくる幽霊に対して、後方への回避行動——明らかな悪手を打ってしまうほど、僕は余裕を失っていた。

 ——たッ……!!

 目を瞑り、せめてもの思いで頭を守るように腕を交差するが——

 ——覚悟していた衝撃は、一向に襲ってこなかった。僕はすぐにその理由に気がつき、思わず大きな声を上げた。

「……飛んでる!?」

 そう、僕は後方に跳んだのではない。翼を羽ばたかせ、上空へと飛んでいたのだ。

 突如、3メートルほど飛んだ僕を前にして、幽霊はすっかり攻撃の手を止めてしまっていた。その瞬間——

 ——幽霊の、上を取っている。

 即座にチャンスだと感じた僕は、半ば本能的に右足を振り上げた。そして落下の勢いと、自らの体重を乗せ——

「——ふんッ!!」

 ——反転攻勢。顔面に踵落としを決め、僕は幽霊を地面へと打ち落とした。潰れるような苦悶の声とともに、アスファルトの溝に溜まった雨水が激しく飛び散る。

「……やったぞ」

 地面に臥した幽霊を見つめながら、着地した僕はそう呟いた。誰かを蹴り飛ばしたのは生まれて初めてだったが、きっと命の危機に瀕して好戦的になっていたのだろう。

 ——今後こそ、逃げられる!

 冷静さを取り戻した僕は、今のうちに逃げようと幽霊に背を向けた。しかし——

「——ぐッ……!?」

 直後、左腕が糸状のものに縛り上げられ、そのまま強く引っ張られた。

 ——ッ……! これは——!!

 ——幽霊の髪だった。左腕に一瞥をくれると、絡まった白髪が袖を切り裂き、露出した肌に食い込んでいる。背筋がゾッとした僕は、視線を後ろに向けた。そこには——

『——キヒッ! ヒヒヒヒッ……!』

 まるでマリオネットのように、ゆらりと上体を起こした幽霊がいた。彼女は不気味な声で笑いながら、その長い髪で僕の左腕を捕縛していたのだ。

 乱れた髪の隙間から、充血した片目が覗いている。そのあまりにおぞましい姿に、僕は底の知れない恐怖を感じた。しかし——

 ——やっぱり、こいつを倒さないと……

 僕は恐怖を押し殺し、目の前の幽霊を敵だと認識した。

 ——逃げることは、できないのだ。肉を抉るような痛みに耐えながら、僕はあえて締めつけられた左腕を、思い切り振り上げた。

「——うおおぉぉっ……!!」

 髪がめり込み、左腕から血が流れる。それでも僕は雄叫びを上げながら、渾身の力で幽霊を引っ張り上げた。そして——

 ——キイィ、と幽霊が虚を突かれたように声を漏らす。

 狙い通り、幽霊の体が持ち上がり、そのまま宙に浮いた。その瞬間、少しだけ緩んだ髪を、僕は右手で手繰り寄せる。そして——

「——らああぁッ!!」

 髪を鞭のようにしならせ、再び幽霊を地面へと叩きつけた。彼女はカーブミラー横のゴミ置き場へと吹き飛び、辺りにゴミを散乱させた。

「——やったか……!?」

 髪はほどけたものの、左腕がズキズキと痛む。それを右手で庇いながら、僕はそう口走った。しかし——

『——アハハッ……!!』

 そんな僕の微かな期待を嘲笑うように、幽霊は即座にゴミ置き場から起き上がった。おそらく、積み重なったゴミ袋がクッションになったのだろう。僕は再び構え直した。

 ——土砂降りとなった雨の中、一触即発の緊張が走る。疲弊した体を奮い立たせながら、僕はゆらゆらと浮かぶ幽霊と向かい合っていた。

『——キエェッ!!』

 先に動いたのは幽霊の方だった。接近戦は不利だと察したのだろう。その髪で巧みに絡め取った空き瓶を、ハンマーのようにこちらへ振りかぶっている。

「——ふっ!!」

 避けられないと直感した僕は、思いきって上空へと飛び上がった。もちろん、先ほどのようにうまく飛べるかはわからない。しかし——

 絶え間ない雨音の中に、ガラスの割れるけたたましい音が響く。

 ——経験したことのない律動を、背中の筋肉が自然と刻んでいる。羽ばたきに成功した僕は5メートルほど上昇し、眼下に幽霊を見据えるが——

「——なッ!?」

 体勢を立て直す間もなく、彼女は大量の空き缶を僕へ放っていた。しかし——

 ——いや、いけるッ!!

 一瞬の判断——僕は力強く翼を羽ばたかせ、あえてその中へと突っ込んでいった。無数のスチール缶が、僕に向かって殺到するが——

「——はあぁぁッ——!!」

 巻き起こした推進力が僕の体に風を纏わせ、空き缶をことごとく吹き飛ばした。勢いそのまま、僕は急速に幽霊へと肉薄する。一瞬、真っ赤な瞳と視線が交錯するが——

「——くたばれえぇ——ッ!!」

 裂帛の気合とともに、僕はその顔面へ渾身のドロップキックを叩き込んだ。

 戦いの終わりを告げるように雨が上がった。いわゆる花散らしの雨——辛うじて残っていた桜の花びらも、もうアスファルトの染みになってしまっている。

「……倒した、のか……?」

 僕が蹴り飛ばした幽霊は、地面を転がってそのまま沈黙した。ピクリとも動かない彼女を見て、はあ、と大きな安堵の息をつく。

「……助かったぁ」

 なんとか危機を凌いだ僕は、そう言って倒れるように座り込んだ。疲労のせいで体が重く、左腕が再び痛み始める。そして抗い難い睡魔すらも襲ってくるが——

 ——ふと、またカーブミラーに自分の姿が映っていることに気がつき、それらは僕の意識の外に吹き飛んでしまった。

「えっ……嘘、だろ……」

 そう呟き、顔に何度も触れる。どうやら翼が生えただけでなく、頭部まで白鳥のようになっているようだ。肌は白い羽毛に覆われ、口と鼻は嘴のようになっている。

 そして手も鉤爪と鰭を備えていた。もちろん、黒いロングブーツも似たような構造になっている。僕は自らの体に起こった異変に、今、やっと恐怖を感じたのだった。

 ——服装も、変わってるのか……

 制服とは違う、燕尾服やフロックコートのような礼服を身に纏っている。まるで世界史の教科書に載っている、19世紀のヨーロッパ貴族のようだ。そして、それは——

 ——あの夢の中の、翼を持った青年と同じだった。

「……いいや。今はそんなことより——」

 そう。誰かに見られる前に、僕は元の姿に戻る方法を見つけなければならない。そして一刻も早く、この場を去らなければならないのだ。

「——この状況を、整理しないと……」

 僕は不安を紛らわすために、あえてそう言葉にした。ふらふらと立ち上がり、幽霊が倒れている位置から、少しでも離れようと歩みを進める。

「……異変は2つ。ひとつは、あの幽霊——」

 ——これは、もういいだろう。幽霊の正体——そもそも彼女がそういった霊的な存在であるのかなど、今は考えるだけ無駄なのだ。

「もうひとつは僕が変化……いや、『変身』したこと」

「グレゴール・ザムザだな」と、僕は少し戯けて呟いてみたが、まったく心は落ち着かなかった。己の体が変容することへの、本能的な嫌悪感——この信じたくもない現象の原因を探るべく、僕はその前後の記憶を辿っていた。

 ——数分前のことが、何時間も前のようだった。

「……っ! 懐中時計!!」

 程なくして、僕は『変身』が起こる直前に、懐中時計が青白い光を放ったことを思い出した。すぐにポケットに手を突っ込み、時計を探すが——

 ——どこにも、ない……

 戦闘中に落としたのかもしれないと思い、僕は後ろを振り向いた。その刹那——

「——なんだ、あれ……?」

 あまりの奇妙さに、僕はどういうわけか、甘いときめきと鼓動の早まりを同時に感じていた。散乱したゴミの中で、異様な存在感を放つそれは——

 ——店長から借りた、あの本だった。表紙がめくれてページが露出しているにも関わらず、なぜか雨にまったく濡れていないのだ。

 僕は思わず、その本に駆け寄った。拾い上げて確認するが、もちろん防水加工なんて施されていない。まじまじと見つめながら、僕はこう呟いた。

「……やっぱり、不思議な本だな……」

 そして、僕は無造作にその表紙を閉じた。その時だった。

「——ん?」

 急に体が縮み、そして軽くなったような気がした。視線を落とすと、いつの間にか元の制服を着ている。そう、それはつまり——

 咄嗟にすぐ側のカーブミラーを見遣ると、そこには僕の元の姿が映っていた。見慣れた手のひらを閉じたり開いたりする。間違いなく、それは自分の体だった。

 ——『変身』の原因は懐中時計ではなく、この『本』にあったということになる。

 理由はわからないが、両腕に負ったはずの傷も癒えているようだ。『本』を両手で抱えて、僕は唇をわなわなと震わせながら声を漏らした。

「いったい、これは、何なんだ……」

 さすがに、もう一度表紙を開く勇気はなかった。数々の異変を前に、頭が限界を迎えてしまったのだろうか。僕はもう、何も考えることができなかった。

 ——早く、もう帰って寝よう……

 血が滲んだリュックサックを拾い上げ、僕は散らばっていた荷物を無心で詰め込んだ。

 ——ノートは水浸しでもう使えない。大切な懐中時計も見つからない。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。

「明日、この『本』は店長に返して……今日のことは、全部、忘れよう……」

 臭いものに蓋をする。まるでうなされるようにそう呟きながら、僕は肩紐と側面が切り裂かれたリュックサックを抱き抱えた。

 そして、今度こそ、この場を後にしようとした。その瞬間——

「——うぅっ……うぅん……」

 側溝の、ちょうど金網の上——幽霊が倒れていたはずの場所から、呻き声のような音がした。驚いて振り返った僕の視界に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。

「……なん、で……?」

 僕はその場に立ち尽くし、そのまま言葉を失った。

 ——そう。さっきまで、地面に倒れていたはずの幽霊が——

 ——相楽セシルになっていたのだ。

 ——同刻。実は近くに、この一連の出来事の目撃者がいた。

「……嘘、だろ……」

 なにか複雑そうな表情を浮かべながら、彼は愕然とした様子でそう零した。

「あいつも、あいつも俺たちと同じだっていうのか……」

 まもなく、彼はこの場から足早に立ち去ってしまった。

 ——4月9日。街にはもう、夜の帳が下りている。


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