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小説『GRACE✨わたしの推し活②』(note1000本投稿記念)

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RUDOのレセプションパーティーから家に帰りつくと23時を少し過ぎていた。いつも自室にこもりがちな息子の宗介が珍しくリビングルームにノートパソコンを持ち出してYouTubeを見ながら寛いでいる。

「おかえり~」
「ただいま。遅くなっちゃった。宗ちゃん、何か食べた?」
「うん、大丈夫。ウーバーでピザ食った」
ダイニングテーブルの上に空になった宅配ピザの箱が放置されている。
宅配ピザか……
さっきまで贅沢なフランス料理とワインを楽しんでいた由香は、ほんの少しだけ自分勝手な自戒の念に苛まれる。心の中で謝りながら、気を取り直して今夜の出来事を話し始めた。
とにかく、今のこの高揚した気持ちを唯一の家族である宗介に聞いてもらいたいと思ったのだ。

「ねえねえ、聞いてよ!成美に連れてってもらったフレンチ、めちゃくちゃ素敵なお店だったのよ」
PC画面に釘付けのまま会話をしていた宗介の視線がようやくこちらに向いた。
「へぇぇ~、よかったじゃん。旨かった?今度連れてってよ」
「う〜〜ん、宗介にはまだちょっと早いかな?もう少し大人になったらね」
「ふぅん、まぁフレンチとか分かんないからいいけどさ。ワインも好きじゃないし」
そう言って半分ほどになったペットボトルのコーラをごくごくと勢いよく飲み干し、再び目の前の画面の中へと戻っていった。

23才の宗介にはまだフレンチもワインも分からなくて当然だ。社会に出てようやく一年、大学を出て念願のデザイン事務所に就職できたのは本当にラッキーだったと思う。働き方は今時のリモート&フレックスでほとんど家で仕事をしている。会社帰りに同僚や先輩と飲みに行くこともなく、生活のサイクルやまわりの人間関係は学生の頃とほとんど変わっていない。時代とはいえそれが良いのか悪いのか、母親である由香には判断できない。できれば社会人としてもう少し視野を広げてほしい。何でもいいから外の世界と繋がる活動をすればいいのにといらぬ心配をしてしまう。

しかしそう思ってはいても実際に口に出すことはしない。成人した息子に向かって小言のようなことを口うるさく言うつもりは全くない。もし言ったとしても、息子がそれを素直に受け入れて実行するとは到底思えない。それは自分の若い頃のことを思い出せば容易に想像がついた。

身内や親しい間柄での会話ほど、後先を考えずに感情だけできつい言葉を使ってしまいがちだ。自分が親元にいた時のことを思い出してみても、親や兄妹と口論した際に言われた心無い言葉というのは胸の奥に刺さった小さなトゲのように時々思い出してはいまだにチクンと痛む。
それは身内目線ならではの、弱みや短所に対する指摘が図星だからこそ、傷ついたし忘れないのだ。由香は自分が親になって同じことは繰り返すまいと、宗介に対しての言葉遣いには小さな頃から特別に気を遣ってきたのだった。それが功を奏したのかはわからないが、宗介は誰に対しても優しく、穏やかな性格の人間に成長した。一時の感情に任せて人を傷つけるような軽口は決して言わない。由香は親としてその点だけは自慢ができることだった。


一方、宗介本人はいつも暇さえあればYouTubeかゲームだ。最近ではネット配信なるものに勤しんでいるようだが由香にはよくわからない。仕事でもずっとPCに向き合っているのだから外で体を動かすようなことをすればいいのにと思うのだが、この子達の世代はそれが普通なのかもしれない。ネットの中で繋がっている“フォロワー”という人たちとの交流は一体どんなものなのだろう。休みの日は家になどいなかった自分の若い頃とのギャップに由香は言葉を失くす。しかし何をどうアドバイスすればいいのかが分からないのだ。親として、人生の先輩として。そしてこんな時、父親がいれば何かためになるようなことを言ってくれるのではと、何の根拠のない愚劣なことをつい考えてしまうのだった。

そんな親の心配などをよそに、画面に集中しながら宗介は話を続けた。
「でもさ、隆明の母ちゃんってかっこいいよな。そんな高級なレストランにワイン卸してるんだろ?凄いよな」
「そうね。成美は仕事できるからね。ママ友の中でも一番のキャリアだと思うわ。パーティーでも際立ってたわよ」
「へぇ、そうなんだ。母さんも頑張んなきゃね〜」
「何よその言い方。ママだって十分頑張ってるわよ。自分なりにね。人には適正というものがあるでしょ? ねえ、そういえば隆明くんは元気なのかしらね。最近会ってないの?」
「全然。社会人になってからほとんど」
「そうなんだ。まぁ、仕事始めたら休みも合わなくなるから仕方ないね」

成美の息子の隆明くんは確か証券会社に就職したと聞いていた。学生時代は三日と空けずうちに来ては宗介とゲームに興じたり夕飯を一緒に食べたりしていたのに、もうずいぶん顔を見ていない。仕方のないことだけれど、子供たちが成長するというのは親として嬉しい反面、少し寂しい部分もある。

由香は思い出したように話を続けた。言いたいことはここからだ。
「ところでさ、そのフレンチレストランに、とっても素敵なソムリエさんがいたのよ!」
「ふぅん。ソムリエって、ワインを選んでくれる人だっけ?」
「そうそう。ママにリースなんとかっていう桃の香りのするワインを勧めてくださってね。それが今まで飲んだことがないくらいに美味しいワインで感動しちゃったわ」
「リースなんとかって何だよ。そんなに美味しいワインならちゃんと名前覚えとけばいいのに」
宗介は呆れたように失笑した。
「そうよねぇ、ママこれからワインを覚えようかしら。奥が深そうよねぇ。今夜いただいたリースなんとか、早速調べるわ」

由香はスマホのGoogleでワインの種類を検索し始めた。
「ワインよりそのソムリエさんに興味あるんじゃないの?」
茶化すような宗介の言葉にハッとする。
う、バレたか。確かにそれは言えてる。本当に素敵な人だった。野崎亮二さん。
あまりにも図星すぎて息子の一言に絶句していると、何かを察して宗介がニヤリと笑った。

「惚れたな」
「い、いやいや、そんな。ないない。だって相手はずっと若いのよ。そりゃ確かにすっごく素敵だったけれどね」
「歳なんてカンケーねぇじゃん」
「そんなことないわよ。相手に失礼だし、第一そんな感情じゃないのよ。もっとこう……純粋に見てるだけで幸せって言うか……これから頑張ってね、って言うか……応援したい感じよ」
「推しだね」
「あぁ、こういうのを推しって言うのね。そっか。初めてその感覚がわかる気がするわ」

推し。年配の女性が韓流スターや男性アイドルグループにハマるのを他人事のようにはたから見ていたけれど、きっとこういう感じなのかもしれないなと由香は腑に落ちた。遠くからそっと見つめていたいような、その活躍をただ応援したいというまっすぐな気持ち。
恋愛感情とは全く違う、自分の欲望なんて何も介さない、もっと崇高な、自分の中にある汚れなき乙女の部分を再確認する幸せ。
推しっていいかもしれない。

「ママ、推し活する!」
「おう、頑張れ」

よく考えたら野崎さんと宗介はそんなに歳が変わらないのかもしれない。
今度成美に聞いてみよう。
由香は久しぶりに新しい楽しみを見つけた気分になった。ワクワクする自分に対してこれまで持ったことのない希望のようなものを感じていた。


翌日、成美にパーティーのお礼のラインを送った。
「昨日はありがとう。素敵な時間を過ごさせてもらいました。
RUDO、とっても素敵なお店ね。また成美と行きたいわ」
待ってましたと言わんばかりに成美からのレスが来た。
「良かったでしょう?今度っていつよ。今週末?」

え?マジか。スケジュールを確かめようとして由香はスマホのアプリを開こうとしたが、今週も来週もその先もずっと、週末の予定など何もないことははなからわかっている。少し考える時間が欲しいと言いたいところだが、成美にそんな見栄は通用しない。
「今週の金曜、いけるよ」
「OK!じゃあ20時現地集合で」
せっかちな成美は決める時はいつも速攻で、こちらが口を挟む余裕など皆無だ。
でも、そうやってこれまで何度も引っ張ってくれたおかげで、今ここにある幸せを手にすることができたのだと由香は改めて感謝するのだった。

✨✨✨

由香はいま現在、地元の駅前商店街にある子供服の店で雇われ店長をしている。
結婚する前の独身時代は銀座の中央道りにある老舗百貨店に勤めていた。接客は楽しかったし人に喜んでもらえる仕事は由香にとってはやりがいのある仕事だった。
当時、由香は上方階にある暮らしのフロアで寝具やインテリア小物が置いてある比較的静かな売り場を担当していた。婦人服や化粧品フロアのような華やかさはないものの、時間をかけてじっくりとお客様の相談に乗れるところが性格的に向いていたし、人と話をする接客の仕事が楽しかった。

元夫とは知人の紹介で知り合った。22歳で結婚してすぐに宗介を授かりそのまま専業主婦になったものの、いつも心の片隅に仕事に対する未練のようなものが燻っていた。やはり自らの稼ぎがあるのとないのとでは充実感や心のゆとりのようなものが全く違うように感じた。もちろん家庭の中にもたくさんやる事はあるし、家族のために基盤となる家を整えることはとても大事だと分かっている。それこそ主婦の仕事というのは終わりがない。しかしそれを誰に認めてもらえるわけでも、対価となるものを受け取れるわけでもない。全てわかってはいるけれど、人として社会と繋がり、より生産性のある人間であることへの未練は捨てきれずにいた。時折夫に仕事をしたいと相談したこともあったけれど、夫はそれを喜ばなかった。ゆとりのある生活をさせてもらっているという自覚がある以上、自分の我が儘を通すことはその時の由香の選択肢には入る余地などなかった。

そういった少しの不満や物足りなさはあったにせよ、結婚生活そのものはなんの不安も心配もないものだった。今から思えば心配なさすぎる平穏な生活に胡座をかいていたと言えないこともない。その代償といえば余りにも過酷な現実が、ある日突然由香に突きつけられることになる。

13年間続いた安泰の結婚生活は、それまで一度も考えたことのなかった夫の浮気で呆気なく終わりを遂げた。世間知らずで何の疑いも持たなかった自分が今となっては腹立たしいが、夫は月に数回出張だと偽っては愛人との逢瀬を3年以上も続けていたのだ。露呈したのは愛人からの執拗な無言電話がきっかけだった。

ある時から夫が出張の度に、帰宅した夜に必ずかかってくる無言電話が3ヶ月以上続いた。最初は偶然だと思ってあまり気にしていなかったが、途中から夫の様子が何となくおかしくなっていった。何かあると思いはしたが、由香は自分からは何も事を起こす気はなかった。男の遊びなどどこにでもある話だと思っていたし、隠し通してうまくやってくれるなら、自分と子供に危害が及ぶことさえなければ大抵のことには目を瞑ろうと思っていた。10年以上専業主婦として一生懸命守ってきたものが、男の身勝手な一過性の心の迷いなどに微塵も揺らぐわけがないと高を括っていたのだ。何より自分は間違いなく夫からこの世で一番愛されていると信じて疑わなかった。何の根拠もない自信だったと今なら言えることだけれど。

それはまさに由香の独りよがりな思い込みだった。度重なる無言電話に業を煮やした夫からの告白は青天の霹靂だった。夫は本気だと言った。一体何が不満なのと聞いても、百歩譲って悪いところは直す努力をするからと言っても、夫の答えは変わらなかった。
「彼女は一人ではダメなんだ。由香は強いし、まだまだ若い。仕事だってやりたいって言ってたじゃないか。社会復帰して外に出ればきっとすぐにまた相手が見つかるよ。俺は彼女と一緒にいてやらないと。あいつ、このままだと何をしでかすか分からないから」

この人は一体何を言っているのだろう。由香には夫の言い分が1ミリも理解できなかった。そんな夫に対して、この先どうやって心を保てばいいのか途方に暮れるばかりだった。
焦る夫は離婚の話に首を縦に降らない妻に向かって、最後には愛人が妊娠したので責任を取る、と身勝手の上塗りのような事を言い出した。そして散々自分都合の理屈を並べた挙げ句、住んでいたマンションを慰謝料代りに、大学を卒業するまでの息子の養育費と二人の最低限の生活費は出すからと言って、愛人と生まれてくる子供との新しい人生を一方的に選んだ。由香は人生で初めての大きな屈辱と挫折を味わった。
あまりにも呆気なく断ち切られた平穏な生活。こんなことは小説かドラマの中でしか知らなかった由香は、自分の置かれた状況を理解するのに相当の時間を要したのだった。

その時間の中で由香は気がついた。夫はこれまでの年月をかけて努力して築き上げてきた家庭という盤石な城をいとも簡単に壊した。由香が何よりも大切にしてきたこの城は夫にとっては何の価値もなかったのだと知った。これまで夫と子供のためだけに生きてきた。しかしこの誠実な気持ちと努力を全く汲もうとしない夫。由香はその裏切りに深く傷つき、言葉を失くした。
非情な夫の決断によって、由香は自分という人間を全否定されたように感じた。とても悲しかった。そしてとても悔しかった。こんなことなら結婚などしなければよかったとさえ思った。

一体なぜ、なんのために結婚したのだろう。自身の心に決着をつけるためにもその答えをどうしても欲しくて泣きついた時、成美は即答した。
「決まってるじゃないの。宗介くんに会うためよ」
そして、どうすればいいのか分からないとこぼす由香に成美は断言した。
「諦めなさい。もう旦那の心は由香にはないわ。どう足掻いても戻ってこないわよ。あっちに子供ができたなんて嘘かもしれないじゃない。でもね、そこまでしてもあちらと一緒になりたいんでしょ?だったらいいじゃない。由香はなにも悪くないわよ。でもね、自分の人生を自分で歩くってこと、してこなかったのよ。由香、これからは自分の足で歩きなさいよ。宗介くんがそばにいてくれるなら大丈夫よ。私だっているわ。いつでも力になれるわよ。だから、大丈夫!」

最初は頭がついていかなかった。しかし成美の言葉で全てが腑に落ちる感覚があった。それが全てだと実感できた。自分の人生を自分の足で歩く。それはこれまで意識すらしてこなかったことだ。自分はそれができていなかったのだと成美に言われて由香は初めて気がついた。

まだ小学生だった宗介は離婚する際、自分の意見を何も言わなかった。争いごとの嫌いな優しい性格の宗介は、父親の勝手な言い分も責めなかったし、母親に対しても泣き言や責めるような言葉を何一つこぼさなかった。
自分自身も辛いに決まっているはずなのに、傷心の母親に向かって「これからは二人で頑張ろうよ」と、一言だけ言って取り乱すことはなかった。その冷静で落ち着いた態度に由香はどれほど救われたかしれない。

成美の言葉で由香は改めて宗介の存在の大きさに気がついた。当たり前ではなかったのだ。この世に生まれてきてくれてありがとう。今こうして一緒にいてくれてありがとう。この先一緒に生きて行こうと言ってくれてありがとう。素直にそう思った。
そこには感謝の気持ちしかなかった。
そしてようやく、由香は前を向くことができた。


離婚後の生活は経済的には特別苦労することはなかったけれど、心にポッカリと穴が空いて何もやる気のない状態になった母親の姿を見兼ねて、宗介は外で働くことを薦めた。

「アルバイトでもいいじゃん。何か好きなことやってみれば?ママ、結婚する前って働いてなかったの?」
「これでも銀座のデパートで働いてたのよ」
「え?そうなんだ。すごいじゃん。そんな話、今まで聞いたことなかったよね」
そうだった。自分の独身時代の話など、これまで子供にしたことなどなかったかもしれない。
これからはもっと自分のことを話そう。そして自分の人生を取り戻さなければ。
その時12歳だった宗介が一人の人間としてとても頼もしく見えた。
これからは二人で支え合って、たくさん話をしよう。
まるで夫との生活の足りなかった部分を取り戻すかのように、由香は宗介の言葉や宗介との時間をそれまで以上に大切に考えるようになった。

しかしいざ仕事をすると言っても、いきなりフルタイムで働くにはブランクがありすぎた。35才バツイチ、今の自分にできることが何かあるのだろうかと、由香は自分が住む街のアルバイト情報を検索した。その中に駅前商店街にある子供服のお店を見つけた。

接客ならできる。人と話すことは好きだし子供服なら12年間の子育て経験のある自分にも多少はわかるはずだ。不安な気持ちの方が大きかった久しぶりの仕事は、始めてみるととても楽しくて思った以上に自分は働くことが好きだったのだと改めて気づかされた。
お客である若いママさんたちからは、子供服の選び方だけでなく、子育ての相談も求められた。由香は自分の経験をもとに、押し付けがましくならないように気をつけながらも少しでも役に立つ情報を提供しようと心がけた。
自分の母親や姑に聞くより、由香さんに相談した方が気持ちが楽です、と嬉しい反応をもらうとより一層期待に応えたいと思うようになり、ますます仕事に邁進した。

由香の接客は評判を呼び、店はとても繁盛した。働き始めて10年経った今では、契約社員ではあるけれど、オーナーからお店の運営のほとんどを任されるようになった。商品の仕入れから店内レイアウトやディスプレイ、そして重要な顧客管理まで店づくりのほとんどを任されるようになって、由香は仕事が楽しくて仕方がなかった。その経験によって、これまでの人生において何一つ無意味なことなどなかったと思えるまでに由香の心は回復することができた。そして10年前、宗介が背中を押してくれたあの時の一言にいつも感謝するのだった。


✨✨✨


金曜日。由香は成美が指定した20時ちょうどにRUDOのドアを開けた。
「いらっしゃいませ、芳村様。お待ちしてました」
落ち着いた低音ボイスに心臓が跳ねる。
今夜は2度目の訪問だが、あのレセプションパーティーからは一週間も経っていない。またこうして会うことができるなんて、なんて嬉しいことだろう。
やはり改めて見ても、野崎という青年はとても美しく、颯爽とした姿が魅力的だった。見ているだけで心に爽やかな風が吹くようだ。
推しだ。私の推し。
今夜のこの訪問はいわゆる“推し活”というやつだ。
由香は先日とはまったく違った心持ちで店内へと入った。

今夜は先日のような失態はしないよう、落ち着いてこの時間を楽しもうと決めた。
「こんばんは。野崎さん、先日はお世話になりました」
「こちらこそ。名前、覚えてくださって嬉しいです」
推しの言葉にグッとくる。また顔が赤くなるじゃないの。
「波多野様はまだお見えになってないんですよ。先にご案内いたします。どうぞ」
まさか成美は残業じゃないでしょうね。今のところ遅れるなんて知らせはないけれど。念のためにスマホを確認するがやはりメッセージは何も来ていなかった。
時間に正確な成美はこれまで待ち合わせに遅れたことがない。少し不安に思いつつ、由香は野崎の後について一番奥のテーブルに案内された。

店内は程よく客が入っていた。入り口近くのテーブルには男性三人のグループ。仕事仲間かそれとも接待か、話が弾んで賑わっている。夜景が見える窓際の離れた場所には男女のカップルがふた組。ひと組は品のいい老年の夫婦のようだ。時々目線を合わせて微笑み合いながら静かに料理とワインを味わっている。もうひと組は派手に着飾った若い女性と歳の離れた恰幅のいい男性。親子だろうか?それとも会社の上司と部下か。ジロジロ見るのは憚られるので店内全体に視線を泳がせるようにして伺い見る。銀座の夜だ。色んなカップルがいて当然だと由香は思いながら、そんなふうに受け流せる自分に、10年前のあの頃には考えられなかった心の余裕のようなものを感じてふと可笑しくなった。

店内はあたたかなオレンジ色の明かりに包まれ、静かにピアノジャズが流れている。先日のレセプションパーティーの時とは違った落ちついた雰囲気に由香はほっとする。真っ白な分厚い木綿のテーブルクロスが清々しい。ライトの光を受けて輝くカトラリーが整然と並んでいて、思わず背筋が伸びる。

先日のパーティーの時の失敗を反省し、今夜はお洒落にも少し気を遣った。秋の流行色であるキャメルブラウンのニットアンサンブルは細かなゴールドラメが入っていて、夜の食事に控えめに花を添えるには最適だ。そしてアイボリーのプリーツスカートにモカグレーのヌバックのブーティを合わせてみた。着るものでこんなに気持ちが上がるのかと、由香は推しに会うために頑張った自分を、結局は自分が一番楽しんでいることに気がついて心が浮き立った。

やがて野崎がワインリストを持って由香のテーブルにやってきた。
「今、お店に波多野様からお電話がありました。仕事が長引いて少し遅れるそうです。先に由香さんに何か勧めておくようにとのことですが、どうされますか?お待ちになる時間、何かお飲みになりますか?」

やはりそうか。仕事なら仕方ない。
「そうですね、じゃあせっかくなので何か野崎さんのおすすめのものをいただいてもいいですか?」
「由香さんは確か、甘いワインはお好みじゃなかったですよね?」
さすがだ、と由香は感心した。先日野崎に勧められて飲んだワインの感想を「甘くなくて美味しい」と言ったことをちゃんと覚えていてくれたのだ。
「はい、さっぱりしたものが好きですね」
「赤にされますか?それとも白?」
「さぁ、どちらでも結構です。本当に私、ワインはわからないので」
「かしこまりました。お任せください」
そう言って野崎は嬉しそうな笑顔を見せた。

おぉ、なんという可愛い笑顔だ。これぞ推しの“尊い”というやつか。
由香はウキウキした気持ちで店の奥にあるワインセラーへと向かう野崎の背中を見送った。


推しかぁ……
自分の中では馴染みのなかったその言葉に由香は新鮮なときめきを感じていた。そして自分でもそんな風に今時の流れに乗れることがあるのかと面はゆさと共に嬉しさが増していく。それは恋にも似ているけれど何か決定的な違いがあって、それが何なのかはいまいちよく分からない。分からないからこそ、未体験ゾーンに足を踏み入れるようなワクワクした気持ちになるのだ。このときめきは一体私をどこへ連れていってくれるのか。この歳でこんな気持ちになることがあるのかと、半分他人事のように俯瞰しながら自分自身を楽しんでいる。

うっとりした気分で窓の外に輝く銀座の夜を眺めていると、先ほどうちを出てくるときの宗介の言葉がふと頭に浮かんできた。

「今夜、成美とまたRUDOに行くの。宗ちゃん、晩御飯適当によろしくね」
「りょーかい。楽しんできなよ」
「ありがと!推し活してくるね!」
「あぁ、頑張って。母さん、もっと自分の人生楽しみなよ。もうとっくに子育ては終わってんだし。自分の好きなことしていいんだからさ」

驚いた。突然の息子の予期せぬ言葉に、驚きと嬉しさが綯い交ぜになって少し胸に込み上げるものがあった。

「えぇ、ありがと。宗ちゃん、ありがとね」


由香のこれまでの人生にはいくつかの分かれ道があった。辛いこともあったけれど、いまこうして自由な時間を好きに過ごしている自分がいる。改めて振り返った時、もうそろそろ色んなことから解放されてもいいのかもしれないと素直に思えた。
テーブルの上に設えられた小さなキャンドルの炎が優しく揺れるのを、由香はいま穏やかな気持ちで眺めている。
その時、バッグの中のケータイが震えた。取り出して見ると、成美からのラインだった。

「ごめん!今夜はまだしばらく仕事が終わりそうにないの。次回必ず埋め合わせするから。今夜は野崎さんに美味しいワイン勧めてもらってね。お会計は心配しないで私に任せて。お店には伝えてあるから。
たまには贅沢しなさい。楽しい時間を!」

あらあら。まったく成美はワーカホリックだなぁ。
いや、もしかするとこれは成美の策略?
どちらにせよ、この時間は私に与えられた人生のご褒美だ。
愛する友と恵みのひとときに感謝。そしてこれからはもっと自分の時間を楽しんで、自分を愛していこう。

人の気配に気づいて顔を上げると、野崎が目の前で穏やかに微笑んでいた。
「こちら、波多野様からです。由香さんの口に合うはずだからと。私もとてもいいワインだと思います。少し注ぎますのでテイスティングをどうぞ」

テーブルに置かれた底が広く丸い大きめのグラスに、美しく澄んだルビー色のワインがほんの少し注がれた。
静かにグラスを回し、鼻に近づけて確かめてみると、イチゴやすみれの花のようなクリアで優しい香りがした。そして口に含んでゆっくりと味わってみる。渋みの少ない、フレッシュな果実の酸味が広がった。

「可愛い香りですね。爽やかでとても美味しいです。なんというワインですか?」
「ブルゴーニュのピノ・ノワールです。同じ品種でも熟成度合いによって味わいは様々ですが、こちらは波多野様一押しのワイナリーのもので、比較的若く、繊細で可憐な印象が僕も大好きなんですよ。アミューズのホタテのマリネにもよく合うと思います」
「私、これから少しずつワインを勉強していこうと思ってるんです。こんなに素敵な飲み物を今までほとんど知らずに生きてきました。もったいないですよね。先日、野崎さんに勧めていただいたあのリースリングワインがきっかけです。これからいろいろと教えてください」
「嬉しいです。ありがとうございます。でも、ワインは深入りするとどこまでも沼落ちしますよ。お食事と共に気軽に楽しんでください。由香さんの推し活ですね」

なるほど、ワインの推し活か。いいかもしれない。
目の目にいる推しに言われたのなら間違いない。
由香はこれから始まるワインとソムリエの推し活を想像して心がときめいた。
そして、まず最初の推しの一杯目をゆっくりと味わうために、心の中で自分自身に乾杯した。

推しのある楽しみに、そして自分の足で歩くわたしの人生に、乾杯!


終わり

小説「GRACE✨わたしの推し活」
note1000本投稿記念

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