飼育下にある生き物たちの幸せのための双方向コミュニケーション

地球上で私の心を捉えてやまないのは多種多様な生き物たちで、彼らへの深い称賛と感動の思いは年々増しているように思える。
そんな自分は生き物たちのために何ができるのか? と「貢献」を模索していた時期もあったが、今はそういった力みも取れて、私自身出会うことができた生き物たちのことをただ私なりに知ること、その存在に心でふれさせてもらうことで十分かもしれないと感じるようになった。

旅行をしても、何より大きく胸に迫ってくるのはその土地土地の自然の風景や生き物たちの様子で、前回の記事◇「体験の出し惜しみをしないこと・内から湧く道」の中でふれた最近の二度の旅行でも、そうだった。

道中や観光で自然の景色を眺めるほかに、この二度の旅行ではそれぞれその土地の野生動物を保護している施設を訪れることができた。
スケジュールの都合で訪問時間がごく短くなってしまった場所もあったが、そこで私が感じたことは以前から、飼育下にある生き物に関して伝えたいと思っていたことそのものだったので、今回はこれを語ろうと思う。

野生生物であれば自然に備わっていることが、飼育下の環境では失われてしまうことがある。それによって精神のバランスを崩してしまう生き物もいる。それが身体的症状として表れることもある。
人間が愛情をもって世話をしていても、これを絶対に防げるとは限らない。彼らにもそれぞれの個性があるし、異なる要望もあるのだ。
私は生き物に携わる仕事をしている人たちを尊敬しているが、飼育している人たちの生き物への献身は相当なものであっても、動物園でノイローゼになっている動物たちのような姿を目にすることがあるのが現状だ。

しかし旅行で私が訪れた中の複数の施設では(前述の通り、わずかな時間しか眺められなかったところもあったのだが、私の見た印象では)、ケガなどで保護された元野生の動物たちと、彼らを親としてその施設で生まれ育ったものたちとが暮らしており、その姿は生き生きとしていた。
各施設で飼育している動物は異なったのだが共通点があって、生き物たちが幸せに暮らすために欠かせないある要素が満たされていた。

物理的環境の工夫、生態に合った飼育の仕方という側面ではない。
私がこれから語ろうとしているのは、生き物たちの心についてだ。

心というと、研究結果によってある生物には情緒があると認められるが、ある生物には認められていないとか、脳がこのようなので本能以外にこれこれの能力はないはずだとかの科学的見解が持ち出されることがあるが、私はその世界観を採用していない。興味があれば私の記事をほかにも読んでもらうとわかるのだが、土台から異なる話を伝えている。

人間以外の生き物たちを人間と同じように「擬人化」することは誤った解釈を生むことがあるが、かといって、生き物たちを自分たちと大きくかけ離れた存在と考えることも誤りを生む。存在としての私たちは同じだからだ。

表層を見ていたら、体の構造や生態などの違いが目につき、そのことはわからないかもしれない。
では、そういった表層だけを「現実」として見ることをやめたら?
――あらゆる存在との双方向のコミュニケーションが可能になるのだ。
ここまでは、今回の前置きだ。

飼育下にある生き物たちの幸せに欠かせないこと

野生生物に自然と備わっていて、飼育下にある生き物たちにはときによって失われてしまうものとは何だろう?
「自由」と思い浮かんだ人もいるかもしれないが、それはもちろんそうだが、ここでは「引き続き、人間とともに暮らす」前提で何ができるかという話をしたいので、暮らしの中で野生では課されない何らかの制限が生じてしまうことは変えられないものとする。
また、すでに述べた通り「愛情」も、もちろん必須ではあるが今回の答えではない。

問いの表現を変えると、飼育下にある生き物たちであっても、これが満たされていれば幸せに生きられるという、ある要素とは何だろう?
「人間と、他の生き物たちとは違う」との思いが強いと、次の答えは意外に感じられるかもしれない。
それは、

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