形は問題になりえず、心だけが問題になりえる――たとえば、お金。

形は問題になりえず、心だけが問題になりえる――たとえば、お金。

この間、家族がテレビCMを見ながらこちらを振り返り、無邪気に尋ねた。
「12億円あったら、どうする?」

私の答えは、こうだ。
「今と同じことをする」
同様の質問を何年も前に、当時一緒に暮らしていた彼氏から尋ねられたときも、私は同じ答えを返していた。そして、
「それは、とても幸せなことだね」
と言われたのだった。

そう、大金があってもなくても今と同じことをすると言えることは、幸せなのだろう。条件に関係なく「今、したいことをしている」と自覚できているのだから。

何かについて「お金があれば解決できる」と考える思考の道筋は、現代社会ではまるで方程式のように通用している。実際その通りのことを経験して、その思いをますます強めた人もいるかもしれない。
けれども、お金という「形」をとった表現の根源には、心があることを理解していなければ、本質を見ていない。

形は問題になりえず、心だけが問題になりえる。
このことはお金や経済に関する分野に限らず、すべてに共通だ。

こうして書くことを含む活動の中で、私は以前から一貫して、あなたの力をお金を増やすことや目標額を稼ぐ(または所持する)ことに向けるのではなく、本質の方へと向けられるよう意図してきた。

私たちに必要なのは、「結果」のメイキングではなく、元である「原因」を扱うことだからである。ご存知の通り、結果は二次的なものだ。

お金があっても、なくても「今の自分はこうなのだ」と認識しよう

今の私を例に挙げよう。私はお金をどれだけ持っているかに関係なく、本当にほしいと思ったものは買うなり何か他の方法を見つけるなりして得るだろうし、心から行きたい場所には行くだろうし、もし、別の場所に住みたいと思ったら移動するだろう。
「内心こうしたいのに我慢している」ということがひとつもない。

12億円の質問のときもそうだったが、現在は実行に移していないが将来的に実現したいこと……と考えると浮かぶのは、猫を飼うことだ。
私は動物が大好きだが、これまでは小動物としか暮らしたことがない。中でも、十年以上を共に生きてくれたうさぎは本当に大切な家族の一員となったが、それほど心が通い合ったうさぎが亡くなった後は、時間が経っても別のうさぎを迎える気持ちになれないのだった(今でもうさぎは大好きであるが、うさぎを好きという気持ち以上に、あの存在、私の家の愛うさぎのことが好きなのだった)。
今後共に暮らしてみたい別種の生き物として、ずっと興味を持っているのは猫なのだ。いつか迎え入れられるよう心のアンテナは張っているが、動物という新家族に対する責任を考えると今積極的に迎える時じゃないという気がして、「スタンバイ」の状態にある。
家族が猫が苦手という事情もそこに加わって、より一層「今ではない感」を醸し出している。しかし、私の将来の生活のどこかには、猫がいる可能性を感じているのだ。だから、もし余分にお金があったらと問われると、キャットタワーって必要なのかなとか、猫が暮らしやすいよう住居を改造するとか、猫グッズのあれこれを想像してしまう。
……しかしそれに、そこまでの大金は必要ないだろう。

言う間でもなく、心からやりたいと思って自発的にやっている自分の仕事を変える気はない。
スピリチュアルな分野の活動だからといって、私は講座セッションを無料にしたり、今こうして有料で提供しているnoteを全部無料にしようと考えることはない。なぜなら、意図があってこの形を選択しているからだ。
12億円あるので(もしくは、額はともかくお金が沢山あるから)、無料冊子を印刷して配布します、とかもやらない。
逆に、お金があったらそういうことがしたいのだとしたら、今それをしないと自分に対しても世界に対しても失礼だと思う。

目を覚まし、精神をすっきりクリアーにして、思い出そう!
私たちはお金によって支配されているのではない。
まず、こう認識してみよう。あなたが今のあなたの状態なのは、持っているお金の額や、どれだけ稼いでいるかなどのバックグラウンドのせいではないのだと。

人生には、いかにもそれが原因で、という風に見える状況がある。
けれどもそれは真の原因ではない。

ほしがらない意義はある。お金をたくさん持っている方が世の中に貢献できるか

ところで、いわゆる「comfort zone」という考えに基づくと、慣れ親しんだ環境外の経験は居心地悪く感じる、だから金持ちの暮らしを経験したことがない人は、それを本当にはほしいとすら思えないんだ、という説明がある。

これに関して言うと、私はおそらく日本の中では平均的な経済事情の家庭で育ち、両親は途中からは共働きで、そうすることで私や妹の教育等に必要なお金を回してくれていたという「庶民」の暮らしであったと思う。
ただ、高校時代の留学生活から始まり、成人後も人間関係や仕事のなりゆきで、自分の家庭の水準とは違う暮らしをする人々を見て、体験もする機会が多かった。

中には富豪と言って差し支えのない人々もいたので、私は自分自身のお金でではないし、継続的にではないが、そうした暮らしの一端を経験はしているのである。その頃からすでに私はほとんど今のような「心のあり方」だったので、(一例として日本の都心でなら、)
最高級の部屋に泊まり、高級車に乗り、他の移動は電車は乗らずタクシーで、高級レストランで日々食事を……というような状況に気後れすることもなければ、特に嬉しいと思うこともなかった。
単純に、趣味が合ったり好きなものだったりすればワクワクするが、そうでなければ「そのものに付けられている世間の価値がどうであれ」、自分にはそうでないというだけのことだった。

どんなに豪華な部屋であろうが料理であろうが、そのときの自分の心が充実していなければ「空っぽ」。
ここに家族がいたら楽しかったかもなとか、友達と笑いながら好きなものを食べているときの方が幸せだなとか、そんな日常の「きらきらした瞬間」が思い出されることもあった。
自分には要らないサービスが多いなということも感じた。

だから私は、本人の趣味に合えば、どんな生活を望んでも妥当だと思うし、人間が「理想」とするものは一種類ではないと知っている。
とてもお金のかかる暮らしを選んでもいいし、そうでない暮らしが楽しい人もいる。ひとりひとりが何を好み、愉快に思うかは、バラエティーに富んでいる。

その意味で、同じものを「ほしがれ」という方が無理なのだ。
お金をパワーと同一視している人たちは、「お金をほしがらない若者」や「お金のために頑張らない人々」を嘆き、さも無気力であるかのように扱い、説得しようとすることがある。

けれども、あなたはあなたの望むものを多様な方法で手に入れたり、実現したりすることができる。お金は、そうした手段の中のひとつにすぎない。
だから、漠然とであっても、収入を上げることやお金を稼ぐことに「方法を限定しなくてもいいのでは?」と感じている人は、これまでの社会が示してきたような「上昇志向」には戸惑い、そこに「同調できない自分」を感じるはずである。果たして、そのゲームに「乗る」必要があるだろうか?

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形は問題になりえず、心だけが問題になりえる――たとえば、お金。

masumi

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物書き、元スピリチュアルカウンセラー。ブログは https://beats-and-love.hatenablog.com 、各noteの記事紹介と、同種のテーマの過去記事があります