今の自分に調和した決断をしよう!
「タイミング」と言うとき、外の状況を見てそれをはかろうとするだろうか。内で感じていることでは不十分で、自身に許可を出すための後押しや、何かそれらしいサインを探すだろうか。確かさを求めて。
あなたが心から、今だと思った時がタイミングなのだ。
心はすでに決まっているのに、行動に移すまでが長すぎると、心のレベルと物理的表現との間にあるギャップがどんどん大きくなっていってしまう。
想像してみてほしい。滑走路が長すぎて、いつまでも飛ばない飛行機を。
飛んでからの旅程もあるのに、どこまでもどこまでも滑走路を延長し続けていると、滑走路だけで人生を費やしてしまうこともありえる!
そんな風にまったく飛ばずに陸を走るなら、飛行機ではなく、車の方が効率いいよとツッコミたくなるよね(笑)
十分飛べるのに、飛ばない。
それは無理を生じさせる不自然なことなので、あなたのエネルギーはどこか不調和を起こす。
かく言う私も、最近まで、大きなシフトが未完了だというもやっとした感じを自覚していた。
日常に何の問題も見受けられないのに、どこか滞っているような重さが確かにある。はっきりとではないが、じわじわと、何かが流れを鈍くしている。一体なんだろう?
はじめは、わかりやすい状況の方に目を向けてみた。すなわち、先月のnoteに書いた通り、パソコンなどの機器を新しくしたことだ。変化に、なじみ切れてないのかな?
けれども、内から感じる「しっくりこないという、かすかな気持ち悪さ」はそんな物理的なものではないのだと、すぐにわかった。物理的状況に内面を投影することはできるけど、それでは答えを見ることにならない。
心と行動にズレがある箇所はないか。
実行できるのに、引き延ばしていることは?
あるとしたら、それは何か。
内を探れば、心当たりはひとつしかなかった。
昨年、すでに結論を出していたことに関連する。
これは私のケースだが、同時に、決断を先延ばしにしている人や、心は決まっているのに理由を作って妥協案を採用しようとしている人にとって参考になる箇所があるだろう。
自分に百パーセント一致した決断と、そうでない行動との間にあるズレ
私が昨年出した結論とは、自分のやりたいことの表現手段を「書くこと」に移し、スピリチュアルカウンセラーの仕事を終了することだった。
そう決めてからは順次、提供していたメニューを閉じたり、枠を縮小したりしてきた。11月に◆「変化の時♪ 仕事の話と、個々の現実の色合いが明確になっていくこと」を書いた時点でヴィジョンは曇りなく明確で、続く12月の◆「オモテで語る、ウラ話。~芸術家・学者成分濃いめの者が、講座を開催し続けて気づいたこと~」では、会場で行う講座の定期開催を終了したことを記事にしている。
ほかには個人セッション(スピリチュアルカウンセリングをはじめとする、一対一でお話しするメニュー)もあるのだが、そちらも閉じて、オンライン講座以外の全てのメニューを終了する考えだった。
ただ、それだけはっきり心を決めながらも、昨年のうちに個人セッションを閉じずに翌年(今年、2020年)へ持ち越したのには理由があった。
期間を引き延ばさず、ある程度一斉に終了させた方がすっきりするだろうという感覚、思い切ってそうしたい思いも芽生えたのだが、そうはいかない、こんな理由もあるし……と、自分に言い聞かせていたのである。
ところがその姿勢こそが、すでに決めた「こうありたい現実」から分裂する要素となって、自分自身と百パーセント一致したあり方ではなくなったために違和感を生じさせたり、エネルギーの滞りになったりしていたのだ。
have toやshouldの要素があるのなら、見直そう
自分の内で何が起きているかを自覚した後の私は、個人セッションを最短のスケジュールで終了した。
つまり、昨年「こういう形にしよう」と決意した通りの形をすみやかに現実にした。
個人セッションへの思い入れや、いかに長年、個人セッションという活動に私がなじんできたかは、セッション終了をお知らせするブログ記事に書いたので省略する。
ここでは、個人セッションの終了を先延ばしにすべきだと考えていた、それ以外の理由に焦点をあてる。
理由のひとつは、もしかすると受ける方の都合があるかもしれないと考えていたからだ。特に、過去にお話ししたことがある方について。
とはいっても、私の提供するセッションは同じタイミングで繰り返し受けてもらうとか、次の時期をこちらから提案するというようなことが一切ない。つまり、次またお話しする機会があるのか、ないのか、それはいつになるかということは予測できない。
あらかじめ何月何日に個人セッションを終了しますとアナウンスすることも考えたが、最後だからとあおるようになるのもいやだし、必要な方は必要なタイミングでお申し込みをくださるものなので、やめた。
個人セッションは、講座を開催するようになるよりもずっと前から私自身がやりたくて始めた仕事であり、実際に個人セッションのひとつひとつが独自の深さを持つかけがえのない体験だったことは言うまでもない。
長年にわたって、不定期にセッションを利用してくださった方々もいらっしゃり、私はそうした方々の人生を微力ながら応援したい思いがあったので、終了するにあたってはそのことに思いを馳せた。
けれども、どう考えても真実のところ、私が自分以外の人生の「伴走者」であることはできないのだった。手助けできるように見える機会があったとしても、必ず終わりが来る。必要なときに応えられるように、ひっそりと個人セッション枠を残しておく可能性も検討したが、それはむしろ不足や欠乏に基づく発想で、全ての人が持っている豊かな才能や創造力を「十分でない」と否定することに等しいのだと認識した。
個人セッションという形態や活動そのものに対してそう考えているわけではない。「今後の私が」自身のエネルギーに逆らってそういう風にすることが問題になるのだ。
なぜなら、もはや「自分がこうしたい!」という積極的な意欲よりも「そうした方がいいのではないか」という案ずる気持ちや義務感に近いものが動機になるからで、それでは直観や純粋なよろこびに従っているとは言えない。
「しなければならない(have to)」や「すべきだ(should)」という思いが存在しているときには、気をつけよう。それは、「ただ、こうしたい」というあなた自身の感覚とは違っているからだ。
それをあなたの動機にしてしまうと、本当に歩みたい道からずれてしまう。
have toやshouldから派生して考える「理由」は立派な大義名分かもしれず、説得力があって、あなたが学んできた過去に沿ったもっともらしい内容かもしれない。
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