逃げの思考と攻めの思考

「それは逃げ、だよ」
あなたの選択を誰かにそう指摘されても、果たして、それが「逃げ」なのか「攻め」なのかは、本当のところあなたにしかわからない。
そもそも、何が逃げることで何が攻めることなのかという点をここではこう定義しよう——あなたの真の意思に沿うことが「攻め」で、それに背くことが「逃げ」だと。

つまり、混同しないでほしいのは、あなたに休息が必要な時に休むと決めることや、撤退したいというのがあなたの本心である時にその通り決断することなどは、はた目からもし「逃げている」ように見えたとしても、大局的にあなたの人生のための「攻め」になるということだ。
攻めという表現がしっくりこなければ、「我が道を進む」ことと言い換えてもいいね。

あなたが、あなたの人生を本心の通りに歩む勇気を持つことは大切である。
きっと、あなたが自覚しているよりももっと大切である。
なぜならそれこそが、あなたの生まれてきた意味に繋がっているのだから。

形ではなく心の状態を見つめよう。本心と対立する観念とその影響

すでに書いた通り、何が「我が道を本心に沿って進む、攻め」になり、何が「そこから逸れてしまう、逃げ」になるのかは、一見、判断が難しい。

それは物事のうわべとか、形とかで判断できるものじゃないからだ。
あなた自身の心の状態を見つめる必要がある。

その上、私たちの心には、生きながら学習してきた観念(Belief )がある。
観念とは、これこれはこうであるという方程式——ちょうどコンピューターにインストールしたプログラムのようなものだ。
ある観念を信じている間は、ほとんど自動的に「無自覚に」それを働かせることができる。

観念はプログラムのようなものだと書いた通り、あなたの現実を組み立てるために使用する「材料」になるのだが、もちろん観念は「不動の真実」ではない。
ところが、ある観念を持っていてそれを自覚していない場合、観念の内容はその人にとってまったくの「客観的事実」や「真実」に見え、体験される。

これは何を意味するか。
外側に見える物事のみならず自分自身に対しても、
自分の本心の方が「間違っていて」、学んできた観念の通りに生きることが「正しい」と考えてしまうということだ。

すると、その正しさに合致しない自分の生き方には「罪悪感」や「挫折感」を抱えることになる。
自己を否定する様々な感情が湧いてくるのを止められず、苦しみ続けるのだ(それで、「人生そのもの」を苦しいものだと思っていたりもする)。

どうしてそうなってしまうか、わかる?

ここから先は

1,331字

¥ 800

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?