分離と神の愛について、シンプルで実用的な説明!【恐れと制限を無効にする】

この数ヶ月流れるようにやって来た気づきは、Essentialで根本的で、気づく度によろこびでぼうっとなってしまうくらい強烈なものだった。
それまで概念として十分に理解していたつもりのものであっても、夢から覚めてはっと目を開き、新しい視界でものを見る実感を伴う体験だった。

新しい視界でものを見るということは、自分の生き方もそれに沿って変わるということだよね。大きく見れば同じ道の上にいるけれど、今、その新しいものの見方に沿って内のすべてを変えているところ。自分の心の中で行っている作業を完全にそれに統一しているところ。

根本の根本にふれる――知識としてそれを反芻するのではなく、自身の内にかかっていた曇り、鈍い眠りを除去して直にそれを見ている。「実在とともに生きている」。
それはもはや存在の源(ひとつの私、神)から「離れたものとして」自己を見ないということで、このとき、きっとあなたもご存知の「分離」の観念とは何なのかへの明確な理解も訪れる。

私はここで、分離についてのシンプルかつ実用的でもある説明を伝える。

「実用的」という言葉も入れているのは、私自身、この理解によって人生で体験するすべての制限とは何かを認識し、その発見のうれしさに思わず拍手したからだ。
私たちの人生経験において、このことに関係していない恐れや制限など何もない。
この理解は、すべてに関わっているからこそ実用的なのだ。

ただし、読むにあたって、「言葉」「文章」としてではなく、あなたの中でそれが何を意味するのか、真剣に考えながら読んでほしい。
そうでないと、真実をあなた自身の中からつかむことができない。

言葉というきっかけを使ってあなたの「鍵」を開くことは可能だ。
だからこそ読み流すのではなく、鍵を開けることができるほど十分な「自分の内との関わりの深さ」の姿勢をもって読んでもらいたい。

これを、あなたの鍵を開く本当の機会とするために。

「分離(Separation)」をどう理解している?

精神世界やスピリチュアルの分野、あるいは宗教や哲学でも「分離」の観念を取り扱うことは多い。

あなたは「分離」をどう理解している?

まずひとつ、明らかなのは、私たちは個々が分離している「物質的世界」を見ているということだ。
私たちは別々の体を持ち、あなたと木や家や犬や虫や物は一体ではない。個々の境界がはっきりとした物理的形態を持つ、分離したものとして体験している。

次の段階は、このような「自分の外に見えている世界」の経験が、あなたの内(意識)によってもたらされていると理解することだ。
外は内の反映。
これを認識すると、「形」として見え、体験している分離とは、内で信じていることが具現化したものであることに気づく。

内で見ているものを、外に見ている。
あなたは自分の内で、この世界として体験している「分離」を信じている。

この物質的世界全体が意識の信じていることの結果なのだから、私たちが別々の「体」や「物体」として見ているのは、「心」が複数あって分離しているという観念の結果だということだ。

言い換えると、私たちは隔たれた別々の心を持っていると信じているということだ。

他者と、他のあらゆる存在と、別々の心を持っているという観念があれば、あなたは孤立して考えることができ、自分の思いは自分だけのもの(分離している)と信じることになる。
すると、どうなるだろうか? 実際にそれを現実にするのだ。
お互いの心がわからないのは当たり前。Discommunicationが普通になる。
なぜなら、この世界は、あなたの信じたことの結果なのだから。

さぁ、ここまでで、
あなたが経験する物理的な分離の世界(個々の体、離れていて別々に見えるもの)は、心の分離という思い込みを形にしたものだとわかった。

ここまでの内容は、これまでも十分理解できていたと、確認のように読んでいる方もいるだろう。

では、心が複数ないのなら、それが「ひとつ」であるのなら、私たちは本当のところ何をしているのだろうか。

様々な「あらわれ(形)」に見える分離の観念の「根本」は何なのだろうか。

ちょうど、3つ前の回の記事◆「目的と手段の一体性【よろこびの決定】」の出だしで、私はこう書いた。
『外界との関係は全部、神との関係の反映』であると。

あなたと神(存在の源、ひとつの私)との関係。

あなたが神をどう見ているか。
これが何よりも重要だ。
なぜなら、あなたはその考えを外に投影しているからだ。

神の愛への不信は何を生むか【神の愛を否定するための戦い】

神が愛であること、神の愛を否定することは、あなた自身を否定することになるのだが、率直に言って私たちは「自分とは何なのか」をわかっていないので、表層上そうとは思っていない。
そして、自分について思い違いをしているまま、現象を作っている。

その結果がこの世界だ。

「ひとつ」であるものが、自分を恐れたらどうなるだろう?
自分の中に「分裂」を作り、その分裂を維持するために、防御するために、自分自身を「何か別のもの」のように見て攻撃するようになったらどうなのだろう。

創造の力は「私」に備わった性質なので、信じていることを自分の創造物として「外」に作り出す。現実として、体験する。

それでも、いくらその世界がリアルに体験されたとしても、そうした考えが「幻想、妄想、悪夢」であると覚えている自己は消えない。
そちらが真実であり、実在だからだ。
この序列は覆せない。
あなたがヴァーチャル・リアリティーのゲームで遊んでいるとして、ゲームの中の展開によって「ゲームで遊んでいる私」を消すことができると考えているとしたら、それはおかしいとわかるだろう。

……うんうん、そのコンセプトもわかってる。
中にはそうすでに心得ている人もいるかもしれない。私もそうだったからだ。十二分に、このことはわかっていた。

けれども、問いはここ――神の愛を本当にわかってる? 本当に?

神は、ときにあなたを裏切り、人々を翻弄し、人間の概念では理解できない試練を押し付け、人々をジャッジし、「罰」を与えると思っていないか。
神の意思とは、何らかの形であなたを脅かし、あなたの望みを奪う恐ろしいものだと思ったことはないだろうか。

「試練」そして「罰」。
懲罰の観念なんて信じてないよと思う人でも、本当にあなたが「罪悪感」を抱くことはないのか、振り返ってみるといい。
自分自身やものごとを非難することがないのか、気をつけてみるといい。

そしてそのとき、あなたは何を信じ、何をしている?

何かを「する」というとき、私たちはそれを肉体によってもたらす「行為」だと考えがちだが、何かをするということは「内でしていること」、つまりあなたの考えや感情、元にある観念の使用を言うのだ。

あなたが為している作業とは、意識的にであれ無意識的にであれ、あなたの内で起こっていることを指す。

正直に見てみよう。
あなたが一日に何回、神の愛を「信じなくなり」、攻撃しているか。
あなたが「神の愛」から除外されていると信じ、神の愛に「欠陥があることを」声高に心の中で表明しているか。

結果としてあなたは、それを紛れもなくあなたの現実として具現化する。
もし、そのままの心の状態でいれば。

そして、そんなことをするのは、「自分に罪がある」「自分には、神の愛に値しないところがある」からだと、だからそうしないわけにはいかないのだと信じている。神に対抗するために。神から自分を守るために(この信念の構造は、後でより詳しく説明する)。

自分に罪があると信じるということは、罪そのものの存在を認めることで、もちろんそれを「外界に、他者に」投影する。

まずは、「神に対する、自分で作っている戦い」を自覚しよう。
あなたは神を相手に戦っていると思っているが、神は戦っていない。

心の中での戦いをやめる必要があるのは、あなただ。

愛がない証拠を具現化し続けるエゴと、あなたが作っている恐れの正体

神との分離を信じている前提で働く機能をここでは「エゴ」と呼ぶが、エゴは、「愛がない証拠」を具現化する。

エゴは罪の実在を信じる。
「神の愛が届かないところ」「ゆるされないところ(愛に値しないもの)」があると信じている。そして、それを証明する。

愛である神を認めたら、エゴ自体が幻想であることがわかってしまう。
エゴが存続し、機能するためには、分離という観念を維持しなければならない。

分離という観念を維持するためには、神の愛を否定しなければならない。
それが、どうしたって「恐れ」を持ち続ける選択になるとしても。

愛と恐れ。これについて、根本を真剣に見つめたことがあるだろうか。
あなたが作っている恐れの正体は、外観に関わらず、すべて同じだ。
すべての恐れは、

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