思考の目的と人生という旅

目的をわかっていると、精神にも行動にもぶれがなく、芯がしっかり通るという経験はない? 逆に、これが目的というふんわりした認識を胸に抱いていても、いざとなったらあっちにふらふらこっちにふらふら、その場その場で起こることに翻弄されたり、様々な思考が次々に湧いてはそうした思いのどれが本当なのかわからなくなったりして、統制がとれずに疲れてしまったことは?

人生は旅にたとえられることがままあるが、今体験しているこの人生全体を旅とすれば、その旅はさらに小さな旅の集合である。日々はすべて小さな旅。そして旅の目的という観点から眺めると、私たちは度々その目的を恣意的に変えているように見える。

しかし、これは錯覚だ。
実際「今日はこっち、明日はあっち、明後日は知らない」というような自分の中での気まぐれな目的変更に私たち自身はなじんでいるし、それが可能だとも感じられるのだが、根底においては人生という旅の目的が真の意味でそんな風にあやふやになることはない。
あなたの内に「覚えている部分」「自己覚知している私」があるからだ。

けれども人生の歩み方としては、それを忘れて「知らないんだ」という前提の様々な体験をすることができる。切り離せない安全ベルトをつけたまま、気まぐれな旅人や迷子の体験をすることができる。
ただしこの安全ベルトは、体という「旅の中で用いるヴァーチャル・アイテム」を守っているわけでなく、あなたという存在・意識に繋がれている。

このことを十分に、十分に咀嚼していただきたい。すると心に抱く目的の中には効果的な目的と、無益な目的があるということがわかるからだ。

体や物質を目的にすると迷子になる理由【例 体の健康を目指す間違い】

目的の中には、大局的な目的と、その内側に含まれ得る小さな目的とがあるように見える。私たちにとってはあたかも「どちらもが目的として選べる」と感じられるのだが、そこにどんな違いがあるかを説明しよう。

たとえば、あなたが「楽しむ!」ということを目的に決めたら、どのようにとか、何によってとか、どこでというのは関係がない。それは純粋にあなたの内に焦点を定めた目的だ。
一方で「どこどこに行って、必ず〇〇を食べて、何々を見て、それから最後にあれを買うという形で私は楽しむ」と目的を決めたら、その成就は形式に依存する。
この場合、もしあなたの思い描く通りにものごとが展開しなければ、あるいは展開していてもなお「不安」や「疑念」が心に生じれば、少しでも自分の想定する理想に合致してものごとが運ぶよう、起こっている出来事や自分の周囲をコントロールしようとするだろう。
しかも結局その目的通りにすべてを達成できたとしても、あなたの心は特に満ちていないかもしれない。

もうひとつ、両者の違いがわかりやすい例をあげよう。
「健康」というテーマだ。これも誤りが起きやすい。

あなたが内の、つまり「心や精神、内なる態度の健康」を目的にする場合と、「体の健康」を目的にする場合と。
前者は、正しく理解していれば実質的効果があり、後者は(思い込みに伴う心理的効果を別にして)無益である。
……これだけ体にまつわる情報があふれる世界で、そこでの「解決」や「より良い何か」を目指す流れが多く見られる中で、この提起はセンセーショナルになり得るが、本当にそうなのだ(もし、これから説明することをしばらく納得できず、結果として同じ過ちを繰り返す経験をしても落胆しないで。私自身も数々の失敗や苦しみを経験し味わった末にようやくこの真実に納得したクチだ)。

簡潔にいうと、物理的なものごとに属する「すべて」はあなたの目的になり得ず、もしそれを目的に定めると、あなたは人生上の迷子になる。
これは精神論や哲学ではない。ただの事実なのだ。
あなたに「目を覚ましていますか? この世界は何だか覚えていますか?」という認識の確認をしているだけだ。

健康についての例に戻ろう。
体の健康を目的に定めることが、なぜ無益(むしろあなたの望みから遠ざかってしまう)かというと、

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