神に仕えようとする人が闇堕ちする理由と、真の自己を生きることとの違い

うわべ上、神に仕え、信念を持って他者に奉仕しているように見える人が、その行動は本心からのものでなく、実は心に深い闇を抱えて苦しんでいたと後で告白したり、本人が生きている間に突如、自分のそれまでしていたことや教えを全否定したりすることがある。

これは伝統的な宗教であろうと、スピリチュアルや精神世界といった分野であろうと、二元的な世界観を持ったまま何かに「忠実に、献身的に」生きていると、必ず起こるであろうことだ。

振り子のように一方の極から一方の極へと心が揺れ動き、自分の中にある光と闇を「外」に投影して体験している。
その人にとっては両方が「現実」なのだから、一方側のみにフォーカスしようとしても、それを自分に強いれば強いるほど、同じ強さで反対側の極にも傾いていく。

この現象を言い表すのに、ポップながらも理解しやすい「闇堕ち」という語を用いてみよう。
闇堕ちとは、漫画などの創作作品の世界で使われるようになった現代語で、二元的な価値観の中での「善や光の信念」に忠実であった者が、真逆の信念に転向してしまうことを指すそうだ。
用語の解説はこちらを。●闇堕ち - Weblio辞書

この語自体、二元的見方のもとでのみ成り立つ表現であり、価値判断になるけれども、そんな風にティピカルに用語化して扱えるほど、人類の体験する「ストーリー」としてはこれが珍しくないことなのだ。

現代日本は、宗教的な枠組みが文化の中で比較的「圧」を持っていない社会だと思う。少なくとも、他国と比べるとそうだと私は感じる。
だから、たとえば周囲の大多数がキリスト教徒で、幼少時からその環境の中で育ち、宗教的価値観が生活に浸透していたという文化の人が抱く葛藤は、日本人には理解しづらいことがある。

何かを自分の道徳として植え付けてしまった人は、ただそれを解除することができなければ、自分の内にそれと同じ信念を「捨てられずに持ったまま、反抗する」ことをする。つまり、反対側の極を体現するということだ。

これは、スピリチュアルや精神世界の分野に「はまって」いた人が、今度はそれを大否定しだす、または真逆に見える唯物的価値観に傾く、などの形で同じ表現をとることがある。

すでに「二元的」というキーワードを出した通り、こうした問題の本質は、外側にはない。本人の内にある。
明らかに自己の内で信じている分裂が解決されておらず、どんな主義主張や行動、信じる対象によりどころを変更したとしても、「恐れの幻想の根本」はずっと同じままなのだ。
(前回の記事◆「私たちの幻想中毒」も関連したテーマを扱っている。)

この記事では、そうした状態のとき何が起きているかということと、あなたが「ひとつの私(真我)」と調和して生きることとの違いをお話しする。

あなたが真の自己であるとき、自分の内で何かを強いる感覚や葛藤は生まれない。あなたが実感するのは、調和と一致の感覚だ。

もし今、あなたの内に分裂した観点が「リアル」なものとして残っていたとしても、この記事を読めば、なぜあなたがあえてそれを採用してきたのかを理解することができる。
理解すれば、それに付随する様々な誤解もとくことができるだろう。

神への誤解と期待

「神」など、自分より力を持っていて自分の「上」にあると信じている何かに対して、人間がどんな恐れと期待を持っているかを、まず説明しよう。

これは実は、誰もが見る必要のある根本的な観念なのだ。
なぜなら、特定の宗教的土台があれば宗教に、それがなくても、対人関係や対世界に、もれなくこの観念を投影して生きているからだ。

その代表的な要素を挙げると、
■自己犠牲の必要性
■試練、苦難を与える神
■懲罰的な神
■自己(あるいは人間世界)に無関心で、非情で、応えてくれない神

などがある。

こうした観念の枠組み内で信じたルールを「正しく」守り、「与えられた」試練や苦しみに根気強く耐え、神の指令に報いれば、「ご褒美」をもらえると思い込む。「救いや、癒しや、幸福、成功など何らかの形の報酬」を期待するのだ。

ところが、それがもたらされなかったり、もたらされても取り去られたり、一難去ってまた一難と、人生の困難は根本解決していないことがわかると、そんな神に祈り、懇願し、献身し続けることに疲れ、不条理な思いがぬぐえなくなる。心の内で「神への怒り、不信、絶望」が増すだろう。

こうした思考の構造は明らかに「ひとつであることを忘れ、分離した状態を信じているエゴ」の世界観であり、それに基づく「取引」であることを理解しよう。

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