外部からの刺激で創造するのではなく、一旦空っぽに戻ってから創造すること

最近、「創造」についての自分の姿勢の変化を観察するのが楽しい。
そこには芸術やクリエイティブな活動という意味での「創造」と、自分自身で現実を創っているという意味での「創造」との両方が含まれるが、根源は一緒なのでどちらにも同じように変化が表れる。

特に面白く感じているのは、以前のように「外部からの刺激」によって創造することを意識的にやめるようになったこと。こうすると案外、「無意識的に」あるいは「駆り立てられるように」創造していたことがけっこうあったんだなと気づく。反応すること、つられること、揺さぶられること、などと言い換えてもいい。

たとえば、私にとって書くことは創造的な活動のひとつだが、以前は純粋に内から湧くインスピレーションによって書く以外に、時々、経験したことへのレスポンス、体験による刺激をきっかけに書く内容を決めることがあった。しかもそれは、読み手に「役に立つ」ことを提供しようという精神からそうなることがままあったのだ。

一例を挙げると、個人セッション講座で色々な人と交流すると、実体験として「ここを難しいと感じる人がいるんだな」「この点が悩みになり得るんだな」など、クライアントさんや受講者さんたちの様子を見て感じることがある。その人たちへは直接、セッションや講座内でお話しするが、それ以外にも私はその体験をきっかけに、同じような困難、悩み、疑問を持っているかもしれない人たちのことを考えるのが常であった。そうして知ったニーズに応える思いで、読んで役立てられるようにと、普遍的な「概念」をわかりやすくブログに書く(具体的事柄を取り上げるわけではないが)ということもあった。
そのように「人々を見て、何を提供するか決めていく」という姿勢は、様々な活動、サービス、ビジネスなどに現代社会ではわりと共通して見られる「普通の」やり方であろう。それどころか「求められているもの」を明確にするためにアンケートを取ったり、分析したりするやり方まである。

けれども今の私は、それら「外を参照し動機にする部分」を完全になくそうとしているのだ。
元々、私の中心にある柱は「自分自身のインスピレーション」であり、それを補う副次的なポジションとして「外を見て考える」ということをしていたのは間違いないが、それでも以前は「あ、これが必要なんだな」「求められているかもな」と思うと、応えようとする要素が自分の中にあった
しかし、それは自分の意思で決めているとはいえ「反応している」状態で、心を完全に「白紙」に戻してもなお、そうしたいと思うかどうかとは別物であると気がついたのだ。つまり「純粋な創造」とは異なる。

これは、「よい・わるい」の話ではない。何かに影響を受けたり、引き金としたり、動機づけられたりすることを否定する意図ではない。
ただ、自分が何を参照しているかというこの「違い」に気をつけてみることは、あなたの様々な活動、仕事、芸術などの表現の分野、そして現実を創るという意味での「創造」について、新しい理解を生むだろう。
創造者としてのあなた本来のあり方に関わっているからだ。

源が自分であるという自覚、あなたの真の立ち位置

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