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表現と必要悪について (ぶんサル回想録3)
どんな職業であれ、どれほどの年齢であってもすべての人々は皆、表現者である。
「表現」という言葉とは縁遠い生活を送っていても、ふいに「表現」の方から襲って来るのであり、その時ほとんどの人は、それを「発表」したいという感覚になる。そこにSNSとの依存体質が出来上がる。
例えば湯呑みの中で茶柱が立つ。みかんの一房についた赤ちゃんみたいなみかんを発見した。チョー長い鼻毛が抜けたとか。なんの発展性も意味もな
子供がやっちゃいけないプレーって何? (ぶんサル回想録)
人間の喜怒哀楽という普遍的な感情がスタジアムにはある。
サッカースタジアムは一級の美術館でもあり、歌声がこだまする音楽堂でもある。
1世紀を経った現在でも原型を変えることないフットボールの"現場"で渦巻く臨場感こそが「娯楽」そのものである。
推しのチームがどんなに負けが混んでたとしても、たまらなく心躍るプレーを求め、チームの勝利を信じてサポーターはスタジアムに出かけ続ける。
その個々のストーリー
シュミレーションのダイブは、オヤジギャグである
これまで3回やってきた"ぶんサル"ですが、再始動する前に思ってた不安は杞憂に過ぎず、マジで楽しい!というのが隠せない本音です。
集客力はまだまだですが、みんなの楽しむ姿をオープンにすることで、徐々に認知されて良い循環になると思ってます。だってガチのフットボール狂なら絶対ボール蹴りたくなるはずだから。
ぶんサルはまだ再始動したばかりなので、焦らずゆっくりとサッカー好きが集うリアルサロンを作っていき
原宿でも"ぶんサル"をやります。
熱意とかヤル気みたいなものは表現するのは大変難しいです。そして、わかりやすく丸出しにするのをどの程度出せばいいものなのか、これもまた難しいです。
「俺、実は熱いっすょ!」系の輩がありきたりな正しいこをドヤ顔で言ったり、当たり前の正義を「やっぱ、俺れらの手で守っていかなきゃヤバいと思ってるんで」調の熱さでやみくもなアピールしたり。
「熱意」の表現がイビツだと、パッションが正確に伝わらることはない
フットサル始めるってよ。
唐突ですが、フットサルを始めます。
と、いうか過去にやっていた"ぶんサル"を再開します。
なぜそんなクソダサい名前のフットサルを再開するのか?その思いに至ったところをサクッと書きます。
ぶんサル再開の理由
のんべんだらりとダラダラ生きるより、最高の瞬間、強烈な一瞬を味わえたら、それで死んでもいいと憧れ、それを男の美学だ!と、言う人がいます。
ミッチーこと及川光博は「死んでもいい」という曲をリ
そして、ハーフスペースに味方はいなかった
監督室の床にうつ伏せに倒れた金髪で肥満の男は、死後数時間が経っていた。その遺体の指先には死の真相を伝えようと自らの出血した血液で床に言葉をしたためていた。
ダイイングメッセージである。
現場に到着した刑事は仏に一度手を合わせると、しゃがみ込み遺体の指先を見入った。
無念を書き記したメッセージ。刑事は眉間に皺を寄せながら小声で呟く。
「ポ…ポジショナル…プレーが…できません…」
どんなに叩かれよ
「今シーズンかはリーガを見ようかしら?」と考えている女性へ
東京オリンピック男子サッカー準決勝、日本対スペインを見ましたか?
僕たちの日本代表も健闘しましたが、あのスペインの練度が高いパスワークに「素敵だわ」と思った淑女は勘が良いです。あのネチネチした攻撃に、B級映画の廃墟な倉庫で両手を椅子に縛り、マフィアがナイフを舐めながら楽しむように痛めつけるシーンと重ねて「ゾクゾクするわ」と感じた人はただのドSです。そして縛られた相手の思考を鈍らせる戦術実行力は凄い