本阿弥光悦という人 本法寺・光悦寺編 京都市上京区・北区
本阿弥光悦って誰?
前回、長谷川等伯編で触れた京都の本法寺。そこにはもう1人日本の美術史上で覚えておくべき人物がいます。
本阿弥光悦(1558-1637)
文章力の問題もあるけど、簡単には説明できないマルチクリエイター。
寛永の三筆と認められる書家であり、国宝や重文の茶碗を作った陶芸家。また漆工芸を手掛ければこちらも国宝(舟橋蒔絵硯箱、東京国立博物館蔵)。さらには出版事業も手掛けたりと芸術のカテゴリーを自由に行き来する。二刀流どころではない才能。俵屋宗達と共に琳派の祖とされている。
現代においても複数の職業スキルを持つ人材は重宝されます。
光悦の残した足跡は広範囲、かつそのレベルは超一流。副業レベルを超えています。
そして当時は武家の時代。光悦の先祖がそうだったように、誤った行動や犯した失敗が生命の危機と隣り合わせ。現代の日本では仕事でミスったとしても、まあ命を取られる事はないでしょう。
そんな時代に光悦の好奇心や美意識がどのように形成されたのかは興味深いところです。
本法寺、光悦編
まずは光悦ゆかりの本法寺をおさらい
本法寺:京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617 本法寺(叡昌山)は室町時代に日親上人によって開かれた日蓮宗の本山の一つ。1436年に東桐院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされる(諸説あり)。日親上人の幕府批判は将軍の逆鱗に触れてしまう。当時は恐怖政治で知られた6代将軍の足利義教の時代。日親上人は投獄され拷問を受ける。紆余曲折を経て豊臣秀吉の時代、聚楽第建設に伴い現在地に移転。本阿弥光二・光悦(1558-1637)親子が移転時の伽藍整備に私財を投じて日通上人を支援。
そして本法寺、光悦編
本法寺を支えた本阿弥家は京都の上級町衆。刀剣の鑑定や研磨を家業とし、足利幕府に仕える。
本阿弥光悦の曽祖父・清信(本光)は、刀の鞘走が原因で将軍足利義教の怒りに触れ投獄される。獄中で出会ったのが幕府への諫言で投獄されていた日親上人。本光は上人との出会いから日蓮宗に深く帰依。本法寺は本阿弥家の菩提寺に。
本法寺には光悦筆の法華経等10巻とそれらを収めた花唐草螺鈿経箱(重要文化財)や光悦作とされる巴の庭(国名勝)が残る。
書院に掛かる「公明正大」の書には子爵源長生とある。気になって調べてみると、旧肥前唐津藩主の小笠原家の人。唐津は小藩でしたが、日本近代建築史の父、ジョサイア・コンドル(1852-1920)の1期生として辰野金吾(1854-1919)、曽禰達蔵(1853-1937)を輩出している。師匠と弟子が同世代。
本法寺では観光客でごった返す光景に出会った記憶はない。ちょっと地味なお寺かもしれないけど、静かな環境でスゴイお宝を見ることができる場所。
そして光悦が晩年を過ごした所。
光悦寺
京都府京都市北区鷹峯光悦町29
江戸時代初期に徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や職人の人々と光悦村と呼ばれる芸術村を作り上げる。当時の鷹峯は治安が良くない僻地だったので、家康に京の端へ追いやられたとも(徳川実紀には記録がなく、証明する朱印状も残っていないらしい)。近隣には御土居の遺跡が残っているので、豊臣秀吉的にも都の内外ギリギリの所か。地図で見ても京都市街地、北部の山の端。
光悦寺は本阿弥家の先祖供養のために設けられた位牌所をベースとして光悦没後に建てられ、光悦のお墓もあります。
どこかでもらった光悦村の古地図を見ていると、本阿弥一族の他にも光悦の友人と記された名前(屋敷地)がある。徳川家康に近侍した豪商の茶屋四郎次郎(3代目あたりか?)と尾形宗柏の2人。尾形宗柏の母は光悦の姉という血縁、そして尾形光琳・乾山兄弟は宗柏の孫という関係。光悦村には上層町衆ネットワークが見られる。
また楽茶碗で知られる楽家も光悦とは親しい関係。楽家には光悦からの「茶碗を作る土を送ってほしいんだけど」というお願いの手紙(超意訳)が現存する。そして光悦が楽家と徳川幕府を取り持つ内容の手紙も。楽家も上層町衆ネットワークの人達なのだろう。
拝観料を支払う時に写真撮影についてお寺の方が、「SNS発信のせいか来訪者がお寺のキャパを超えてしまう。このお寺はそういうお寺じゃないんだよね。」という感じの事をボソッと言われた。ここにも観光公害かと思いつつ、京都で桜や紅葉の時期は仕方ないかとも。
光悦さんが晩年にココでやろうとしていたコトを考えてみる。それは「純粋に自分の美意識を表現するモノを作りたかっただけ」のような気がする。光悦さんを突き動かしたモノはお金とか名誉とか外側にではなく自身の内側に向いていたのではと。自分と上層町衆とでは立ち位置が違うけど。
自分もそうありたいと思いつつも、煩悩を振り切れない凡人の悩みは尽きない。
つづく