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「コンビニのコーヒーはうまいようでなんとなくさみしい」。サニーデイ・サービスの“コンビニのコーヒー”という曲について考えること

 サニーデイ・サービスのニューアルバム『DOKI DOKI』が、1か月ほど前にリリースされた。最高のアルバムだと思う。
 もちろん、前作の『いいね!』も大好き。ただ、出た当時は痛快で爽快なロックンロールレコードだという印象で驚いたけれど、もっと突き抜けた『DOKI DOKI』がリリースされた今になってみると、『いいね!』はブルーな陰りがある作品のようにも思える。新しいドラマーの大工原幹雄さんと録音した曲も、そうでない曲もあって、音のテクスチャーやプロダクションもどこかいびつで、ざらっとしたところがある。統一感のある質感で、3人で勢いよく走り抜けるポップな『DOKI DOKI』と比べたときに、そこがなんだかおもしろくも思えてくる。

 昨日、ある収録の前に、その『いいね!』に収められている“コンビニのコーヒー”についてちょっと考えていた。アルバムのなかでも“コンビニのコーヒー”は、特に歌詞が好きだったから。その時は、この曲については触れられたものの、自分の言葉で語ることはなかったので、せっかくだから、この曲について考えたことを書き留めておこうと思う(ちなみに、この曲のドラムは、曽我部恵一さんが叩いているとのこと。知らなかった)。

 イントロはギターのフィードバックノイズ。ドラムスティックを叩くカウントが入る。ハイハットやタンバリンは基本的に16ビートで、スネアドラムとバスドラムとクラップが組み合わさった4つ打ちがベースになっている。でも、ダンサブルというよりも、ロックンロール的な疾走感が支配的だ。

 歌い出しはこう。「コンビニのコーヒーはうまいようでなんとなくさみしい」。ほんとうにそのとおりだなと、思わずうなずいてしまう。続いて、「恋もさめるもの/温めなおしてもちょっと最初とちがうんだ」と、「コンビニのコーヒー」が恋のアナロジーとして歌われる。
 わたしは日常的に毎朝、豆を挽いて、ハンドドリップでコーヒーを淹れている。自分にとってビールとおなじくらい身近な飲み物がコーヒーで、「コーヒーを淹れる」という作業が生活のルーティンに入っているから、忙しくてそれができなかったりすると、その日一日調子が悪かったりする。
 とはいえ、外出先では、「コンビニのコーヒー」を買うこともたまにある。家の目の前、歩いて3秒のところにセブンイレブンがあるから、出がけにそこで買っていくこともある。
 きっとセブンイレブンのコーヒーマシンがヒットしたからなのだろう、他のコンビニチェーンにもコーヒーマシンは常設されるようになっていて、今では見慣れた光景になった。ブレンドや豆を売りにしていて、缶コーヒーなんかとはちがう、ちょっとプレミアムな感じ。しかも、どのコンビニも100円とか150円とか、ものすごく安い。その安くてまずくもないコーヒーを飲むたびに、「うまいようでなんとなく……」と複雑な気分になる。
 「コンビニのコーヒー」というモチーフがそんな自分の実感とばちっとコネクトするのは、生活者としての曽我部さんのリアルな感覚がそこに表れているからだと思う。この曲を聴くたびにコンビニのコーヒーの味を思い出して、それから曽我部さんが下北沢のコンビニのコーヒーマシンの前に佇んでいる画が思い浮かぶ。

 いきなり大風呂敷を広げると、「うまいようでなんとなくさみしい」という違和感や疎外感は、資本主義のシステムと消費者としての自分とのズレなんだと、わたしは思う。
 コーヒー豆というのは、基本的に輸入品だ。店によってはフェアトレードのものが売られているし、サードウェーブ以降はそのあたりに気を配っているコーヒー店が多くなってきたけれど、大半は中南米やアフリカ、東南アジアから安く買い叩かれたもの。その背後には、数世紀にわたる植民地主義や帝国主義の搾取と、グローバリゼーションと今のハイパー資本主義の効率的なシステムが組み合わさった、すごく暴力的な仕組みがある。だから、自分がコーヒー豆を挽くときに、たまにそのことを考えてしまう。
 そして、その矛盾は、レジで100円ちょっとを払って空の紙コップを受け取って、つるっとした非人間的なコーヒーマシンの中にそれを置いて(なんて善意に依存したシステムなのだろう)、コーヒーが抽出されるのをじっと待っているときに最大化する。自分がさっき払った百数十円は、どこの誰に、何円が分配されていくのだろう。音を立ててコーヒーをじゃーっと流し出す筐体を前にして、安さと便利さ(コンビニエンス)の矛盾に、どうしてもいたたまれなくなる。コンビニのコーヒーはうまいようでなんとなく……。

 後半では、「コンビニのコーヒーは100円で買えるいちばんの熱さ/ハートは燃えている/コインランドリーはいつまでも開いている/それはもう『やさしさ』と言ってもいい」と歌われる。
 ここでは、「やさしさ」という言葉にカギカッコがつけられているのが重要だと思う。言葉をカギカッコで括るのは、その言葉を強調している場合だ。あるいは、「文字どおりの意味ではないですよ」とか、「この言葉の背景には複雑な文脈があって、ちょっと含みがありますよ」とか、そういう意味が暫定的に表されていることもある。ここでは後者だとして考えると、カッコつきの「やさしさ」には含みがある。
 24時間営業のコンビニとコインランドリー、100円で買えるコーヒーの「やさしさ」は、複雑な「やさしさ」だ。
 安さと便利さを提供しているのは非人間的なシステムなのだけれど、だからこそ、どこか心地よかったりする。人間どうしが関わりあったときの「やさしさ」は摩擦や軋轢も生みやすいから、プラスティックで機械的な「やさしさ」のほうが逆に人間に優しかったりする。ただ24時間開いているだけとか、ただ100円でそこそこのコーヒーが買えるだけとか。そこに情感はない。
 一方で、その人間みのない「やさしさ」は、人間や人間性を疎外してしまう。「うまいようでなんとなく……」という違和感を、人間にもたらしてしまう。だから、「さみしい」。「さみしい」どころじゃなくて、その先には他人を搾取している仕組みがあるかもしれない。
 「コンビニのコーヒー」は、優しくもさみしくもあって、矛盾している。資本主義のシステムの「やさしさ」と、そこから疎外されるさみしさやキツさが、真っ黒な液体の中に落としこまれている。それが、この曲からわたしが感じることだ。

 今朝、このあと、コーヒーを淹れるときも、サニーデイ・サービスの“コンビニのコーヒー”という曲のことを思い出すのだろうな。

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